教育福島0011号(1976年(S51)06月)-025page

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教育随想

 

忘れ得ぬこと

添田康子

る子。幼稚園の入園式の度に、この童顔から、一年間のがんばりを誓う私です。

 

泣いている子。お母さんにしがみついている子。指をしゃぶっている子。はしゃぎまわっている子。幼稚園の入園式の度に、この童顔から、一年間のがんばりを誓う私です。

Kは、その中でも私に強い印象を刻んだ一人でした。

二年前の入園式直後、お母さんが引張るようにしてKをつれ私の前に立ちました。

「先生、うちの子はおくんぼだからよろしくない」上眼づかいにチラッと私をみては、もじもじしているKを見て、ちょっと違う子だな、と直感で感じたものがあったのです。

入園式翌日から、せっせとお母さんが送ってきます。しかし登園してもKは保育室には入らず、渡り板に腰かけ放心したように、みんなの方を見ているだけです。他の子供たちは喜んで保育室に入り、はしゃいでいるのですけれど……。私の直感がその通りだったことと同時に、不安がおそいました。この子の指導をどうしょう、難かしい課題でした。早速家庭訪問をしました。家人からは、Kが四歳頃から歩き始めたこと、歩いても転びやすいこと、口数が少ないこと等、素朴な語り口のなかから生育歴と実態を知り得ました。

Kは多分人間的な触れ合いや、恐れがコンプレックスになっているのではないか、それなら、愛情第一でいこう。私の気持ちはきまりました。

手はじめに、「できるだけの声かけを」です。Kの家から幼稚園までの三キロの道のり。歩いてくるK。

「K君、あんなに遠くからよく歩けるのね。えらいわ。」

「K君の机ここよ、K君いないと机さんさみしがるじゃない。」

「お友達、みんなK君と遊ぶことまってんのよ。」

他の園児たちにひっそり協力を呼びかけたり、努めて多い語りかけを、と願って過ごした二週間後、Kは一人で登園しました。私は心があつくなりました。でも期待は甘く、自分から話もしませんし、歌もうたわず、笑顔も見られません。

私はくじけないで、声かけを倍加しました。(他の園児に申し訳ないという自省もちょっぴりありましたが。)手をつないでの遊戯、意識したボール遊びなど、こんな日々で、二学期になったある日突然、Kは話をしたのです。それは絵画の保育時間に、自由画帳ヘクレヨンで絵を描いていたときでした。

「これなーんだ?」私に画帳をつきつけたK。回りの子供たちのあっけにとられた顔。顔。

「K君、しゃべったわー。」

「K君、先生とお話したよ。」ひそひそ声も聞こえます。

「K君、これ運動会の旗でしょう」

「うん、あたった」にっこりうなずいたKは、意気揚々と画帳を頭にかざして自席にもどりました。

私の心に明るい燈がともった感じでした。

二学期の末に、私の希望はいっそう明るさを加えました。Kが笑っているという子供の息せききった知らせで席を立った私は、園庭の砂場で数名の子供たちとゲームをしながら、楽しそうに笑い話をしているKを見たからです。ジーンとこみあげるものがあって、ただただKの晴れやかな顔を凝視する私でした。

教師の満足感とでもいいましょうか。体験として、実感として、よかったというあんど感とでもいいましょうか、幸せという言葉をしみじみ味わったことです。

愛情をもって接すること、このこと以外に教育はないという認識を、私自身の気持ちの上ではしっていたのですが、より深めることができたKとの出合いが、その後いろんな苦しい場合の救いになっていることも事実です。

幼稚園教育のいろんなことを、私は体験から学びとろう、こんな欲を出して、今日も心はずませながら園舎に向かう私です。

 

(須賀川市立小塩江幼稚園教諭)

 

 

 


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