教育福島0011号(1976年(S51)06月)-026page

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教育随想

 

乙女の森から

田母野公彦

「応援委員は至急、乙女の森に集合して下さい。」

 

「応援委員は至急、乙女の森に集合して下さい。」

授業終了を待ち構えていたかのような放送部員のアナウンスである。

「乙女の森ってどこ。」と新入生はうろうろしている。翌日は決まって三年生が、一年の組担任のところにつかつかとやって来て、集まらなかった生徒の氏名を厳しい顔で聞いて行く。阿武隈の山並みが、確かな稜線を描く五月ともなると、新緑の「乙女の森」に集う生徒も目立ち始め、学校中が生気を取りもどす。

校門を入って左手奥の、校庭より心持ち小高くなった所に、十数本のケヤキやイチョウの木がある。場所も狭くおよそ森とは言い難い。その上、舗道に面してけん騒窮まりないものの、木陰の少ない本校では、中庭の芝生とともに、生徒たちには、よき青春の語らいの場である。 「乙女の森」とは誰の命名によるものか、私どもにはこそばゆいこの愛称を、生徒たちは好んで用い、学校新聞のコラム名にまでなっており、きたんない仲間の声を伝えている。

転勤して来て三年目のこの四月、一年の担任を命ぜられ、例年にない、楽しくも多忙な日々を送っている。自分には男子校での十二年の経験があるのだと自負してみても、勝手の違う彼女らの前では、それも無きに等しく、一つ一つが新たなる体験であった。

四、五月は種々の学校行事に加えて、提出物や諸経費の納入など、生徒も父兄もたいへんである。係りからの催促が重なると、未提出者や一、二名の欠席までが、ふだんよりも気掛りになる。最初のシツケが肝心と、ついつい気合いを入れてしまう。こんな日の帰りは実に気が重い。バスが三春街道に入ると、早くも田起こしを済ませ、満面、水をたたえた田が、夕暮れの空を浮かべて並んでいる。巡り来る時節の早さを感ぜずにはいられない。

田植えのことを「シツケ」という地方がある。田畑の作物のシツケ・着物のシツケバリ・シツケイト・行儀作法のシツケと並べてみると、共通の事柄を指摘することができる。すなわち、一定の基準に合わせて作りつけること基準からはずれないように矯め育てることがシツケの意味となるであろうか。シツケは個性の伸長よりも衆の一致を望むものである。シツケも教育の一面ではあろうが、われわれの使命はもっと別なところにあったはずだ。バスに揺られながら一日の反省を強いられる。

翌朝早く、山から「あしびの花」を手折ってバスに乗込んだ。堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」に出てくるためである。現代国語の巻頭は、いつも美しいグラビアと希望にあふれた随想などが多い。今年は他に、矢内原伊作の「明日への希望について」であった。最初の授業は「希望」にちなんで「パンドラの箱」の話から入ったが、こちらの気負いも手伝ってか、生徒との呼吸が今一つ足りなかった。課題の作文を読むと、どの生徒も一様に、高校生になった喜びと抱負、不安と緊張、勉強や友人のことを切々と綴って余す所がない。時に「高校ではむずかしく教える。」と痛いことを書く生徒もいる。

放課後のクラブ活動は一年生を迎えて、特に盛んである。道場を持たぬ剣道部は冷ややかなコンクリートの廊下に正座する。それでも元気いっぱい、神棚を仮想し「神前に向かって、礼。」と言ってから稽古に入る。側聞によると合宿の時の演劇部は、食前に必ず、神への祈りの言葉をささげるとか。さらに、生徒の持ち歩くかばんについたお守り袋を見るにつけ、神喪失の今の世に、真実、神の御加護を願わずにはいられない。

ところで授業はわれわれの生命である。チョークにまみれることは誇りでもある。授業が終って、ふと教卓を見るとおしぼりが置いてあり、その傍らの紙片に「チョークで汚れた手をこれでふいて下さい。」とあった。なんと優しい、ありがたい配慮であろう。満ち足りた気持で教室を出ると、あのささやかな「乙女の森」までが、折からの微風に、彼女らの前途をことほいで、森厳なたたずまいに思えてならなかった。

 

(福島県立安積女子高等学校教諭)

 

 

 


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