教育福島0011号(1976年(S51)06月)-024page

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教育随想

 

生きた授業を求めて

佐藤尚子

しんと静まりかえった教室。

 

しんと静まりかえった教室。

さわやかな五月の風が教卓の上をなでて行く。大きなあくびが一つ。こちらでも一つ。疲れたような目が遠くの山なみをみつめている。長くさげた髪がうつむいて、なにやらまさぐる手の動きにゆれている。ポトリと落としたえんぴつの音に誘われたようにふりむく顔。これが、ついさっきの休み時間には全身をぶつけ合ってさわいでいた子供たちなのだろうか。なにが彼らを静止させてしまったのだろうか。

「どうしたのみんな。授業になると黙ってしまって……。」私は何度、くり返したろうか、このことばを。

毎日の授業でも、研究のための授業でも、優等生や物知り博士が活躍を独占し、教師との対話をわがものがおにおし進め、教師もまたそれに引きずられるように(とは考えていないのだが)展開していく授業。そのかたわらでは、口べたで、さえた答えが言えずに、小さくなっている子供たち。教師の尋問にも似た発問の前には、声をそろえての「そうです。」「○○さんと同じです。」をくり返すほかはない子供たち。“一体、授業とは子供にとってなになのだろう”恥ずかしいことながら、教職二十余年の私が、道徳研究の指定を、りけた本校に転任して、先ず最初にっき当たった課題であった。

「今ごろになって……。」と、過ぎた日々の教え子たちの顔が次々と浮かびどうしても眠れない夜もあったのである。

算数の授業もやっとまとめの段階に入った時、「ちょっと聞きたいことがあります。はじめの式には2の数字があったのに…略…グラフにしたら2はどこへいってしまったのですか。」話し合いで多少さわがしかった子供たちの声がぴたりと止まった。これは、耳が不自由なため、発音は幼児のそのままに話すことにはことのほか劣等感を持っているS男からのものである。

かつてのクラスなら笑い声に消されてしまったであろうこのとっぴな質問にやがて「そういえば…。」のつぶやきに続いて、「ぼくの考えを言ってみます。」と立ち上がりかけたのは、これも以前はどもるくせのあった(今でも少々)T男である。今日は研究授業、大勢の先生方が参観している。担任のひや汗などおかまいなしに、たどたどしい口調で説明を始めたのである。S君の質問は、重大な意味があるといわんばかりのまじめな表情で。その真剣さに引き込まれたかのように大きくうなずく子供たち。そして私も。

まるで予想もしなかったS君のこの疑問は、T男に引き継がれ、口べたながらも本時の授業を引き締めてくれたのである。

思えばこの三年間は、「だれでも、どんなことでも話し合える授業」を心にえがいて歩み続け々日々であった。

「笑われるのはいや。」と固く閉ざした心の扉は理屈や励ましでは開かない。私自身の幼い経験からもそれは実証できることである。

ある授業。成績のかんばしくないM子の答えに、どっと上がる「ちがいまあす。」の声が静まるのを待ち、私は声をおとし、しんみりとした口調で、「M子さんの考え方は先生にはとても役に立ったよ。先生も気がつかなかった考え方だもの。M子さんが答えてくれたおかげで、気をつけなければならないことを覚えたもの。M子さんありがとう。」少々オーバーと思えるほどの賛辞で語りかけたのである。

当のM子は休み時間になると、私の机のまわりを行きっ戻りつ、うろうろ。笑顔をむけると、さっと廊下へとび出したその後ろ姿に私は、からだいっぱいのM子のうれしさを見たのである。

このとき以来『ちがいます。』のことばを私自身の口から追放した。おもしろいことに、子供たちからも消えていったのである。そのかわり「ぼくと○○くんの考えの違い。」などの苦肉の策が生まれ、いっとはなしに、自然にそれが学習の中にも、子供たちの生活の中にもとけ込んでいったのである。

「○○してみたら。」「……かもしれないからやってみよう。」など、考えあぐねているA男にも、かわいい応援団が生まれてきたのである。

 

(福島市立湯野小学校教諭)

 

 

 


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