教育福島0011号(1976年(S51)06月)-029page
教育随想
心のなごみ
青戸可一
“先生、このごろ、どうして朝いないんですか。先生がいないと「おはようございます。」もいえないし、花をあげる時「あれっ。」というようになってやだな。それから、朝一番に来る時、きょうしつがしいんとしていて、なんだかこわいかんじがするよ。”
“朝、先生に、「おはようございます。」をはきはきいおうとしたら、先生はどこにもいませんでした。わたしは先生のエレクトーンの前で、「おはようございます。」をいいました。”
“このごろ、朝、先生がいないので
「なにをしているのかな。」と、かんがえていました。やっぱり、つまんなかったですよ。”
「宿題の裏に、短い作文を書いておいで」と言ったら、期せずして右のような抗議を含んだ作文を、四、五名の子供たちが書いて来た。
一年、二年と持ち上がって来たので「甘えもあるのかな」と、軽く考えていたが、その後の作文にも、同じ内容のものが数々出て来たので)ちょっと考えさせられてしまった。
−実は、此の春、足を骨折された先生が、松葉づえをついて赴任して来られた。たまたま同学年になったので気の毒に思い、毎朝駅まで車で迎えに行っていたのである。
てらう言い方になるが、私は二十年余、子供より早く登校することを常に心掛けて来ていた。今では習慣化して無意識に教室で子供を迎えていたわけであるが、ここ一か月ばかり、カバンを置くとすぐ教室を出て駅に出向いてたので、子供たちが寂しがっていたのであろう。
なるほど、子供たちにしてみれば、家に帰った時お母さんがいないと同様登校した時先生がいないのは、どれほどつまらないものであろう。
カギッ子みたいに、慣れてしまえばなんとも思わないだろうが、やはり心のなごみは違うと思う。
直接はだの触れ合いはなくても、心の触れ合う大切な時間が、朝にこそあったのだということを、今更ながら再認識させられた。
“さんすうの時、先生は三かいチャンスをくれます。
三かいやってもできないと、先生は「前に出て来なさい」といって、またやりかたをおし、えてくれます。
そして、はな(鼻)にはな(鼻)をくっつけて、「アダブカタブラ、さあ、こんどはできるぞ。」といって、まほうをかけてくれます。まほうをかけられるとわたしはできる気になります。”
ふだん、授業の中でなにげなくおどけてやったことが、子供の側には大きな心のなごみとなり、それが意欲になっているということをこの作文で発見して、思わず苦笑してしまった。
二年生だからであろうが……。
数年前に、そのころ八百八十一字の教育漢字を小学一年生に、暗示の方法で全部覚えさせたというレポートがあったが、覚えようとチャレンジする意欲を夢のようにかきたてた先生は、きっと平常の学校生活で、信頼度の高い先生だったのではないかと思う。
たしか低学年の場合には、暗示やスキンシップで「きっとできる」と思い込ませ、やる気をおこさせることはできそうである。
とにかく、触れ合いとは心のなごみをつけること、一人一人の子供たちと喜怒哀楽の生活感情をともにして、信頼度を高めることだと私は思っている。それと同時に、父兄との触れ合いもたいせつであり一参観日や家庭訪問だけでなく、常に連絡帳などでの、間接的な触れ合いも信頼を深める良策だと思う。
父兄におもねるのではなく、子供に迎合するのでなく、学習・行動面の訓練は厳しければ厳しいほど、どこかをいっそうやさしくし、低学年としてことさら必要な、心のなごみを作る時と場を用意しなければならないと自分に言い聞かせている。
(原町市立原町第一小学校教諭)