教育福島0012号(1976年(S51)07月)-024page

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教育随想

 

校 長 雑 感

蓬田 弘

一、恩師の招待

 

一、恩師の招待

 

教え子の結婚式に招待されることは心うれしいことである。先日も親類の結婚式があり、その席にも恩師の代表ということで中学校時代の担任が招待されていた。いたずらに美辞麗句を述べることなく、そのたんたんとした言葉のなかに、中学時代の教え子の思い出を語り、今日のあることを祝福し将来への心構えを述べたなかに感動を呼ぶものがあった。

このような席に、校長を恩師として招くことはまずないといってよい。こうしたことからも、学級や教科担任時代の生徒とのふれあいは大事にしなければならないし、ほめ上手、しかり上手な教師でありたいものである。

 

二、校長と生徒とのふれあい

 

私は現任校で校長として三校めである。小学校と中学校、それに地域によって児童や生徒とのふれあい、父兄とのふれあいにいろいろの思い出があるが、その内容も質も異なるものがある。楽しく心あたたまることも多いが、なんといっても校長と子供とのふれあいでは、心を痛めるものの方が多い。手にあまるような問題を持つ場合に、その子供たちに対する指導や処置を、学級担任や親たちから求められることが多いからである。病人でいえば、かなりの重症患者とのふれあい−診断治療−に相当する。総合病院の院長先生にでもたとえられようか。

中学校では、特に生活や学業の問題就職や進学のことなどのほかに、これらに関連した家庭問題まで含めた広い範囲にわたって、かなり深刻なことでのふれあいが多い。校長は校務をつかさどり所属職員を監督する立場にあり専門化され組織化されている現在の学校運営のしくみからみて、所属職員の一人一人にそれぞれの立場で、責任感と識見と指導力とを期待するものである。

 

三、担任時代を省みて

 

なんといっても、学級担任、教科担任としての生徒とのふれあいが、教師としての子供とのふれあいの中心である。この時代を特にたいせつにしたいものである。なお問題場面では、次のことを配慮しておく必要がある。

教師として問題の生徒に接するとき正しいことを常に言って聞かせるのであるし、その生徒のために役立つはずであるとの考えで指導し、きっとわかってくれるに違いない、実行もまたしてくれるにちがいないと思い、安心し油断しがちであることである。ところが実際は、そうでない場合が多いのが事実である。親の心子知らずとでもいおうか、担任教師の思うほどに自覚していない場合が多く、また自覚して本気で実行するほどの心、誠意を、全部の子供が持っていると思うのは、早計に過ぎると思われる。このような子供が、勤務したそれぞれの学校に何人かいた。そのなかには、後日重大な社会問題をおこした、不幸ふびんな子供とのふれあいもあった。

学級担任時代を省みて、心にのこるものは、このようなことが心あたたまることよりも多い。ほのぼのとしたものを書きたいと思いながらも、校長としての心配や悩みが先にたつのが、偽らざる現実の姿である。

ともあれ、たいていの人間は一日夜あたたかい指導の下にあって、ようやく誤りなく過ごすことができるということであろう。おもしをかる、おもしになる、そうした意味での生徒とのふれあいをしなければならないことが多い。校長として、意識過剰にもならず、その存在をあまり強く子供たちに意識させないように心をくばりながら、偉大なる未完成品である生徒たちに、接していきたいと思う昨今の心境である。

 

(国見町立県北中学校長)

 

 

 


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