教育福島0012号(1976年(S51)07月)-027page

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教育随想

 

中途半端

五十嵐 勇

であると決めている。何をやっても、完全に仕上げることができないのである。

 

私は、自分が中途半端な人間であると決めている。何をやっても、完全に仕上げることができないのである。

例えば、車の免許証の合格は七十八点であった。しかし、これは本気で取り組んでこれだけだったのだからしかたがないとして、自分で計画した仕事でも、八十点程度でよしてしまうのが常である。世間一般のまあまあの合格点で満足するところは、どう見ても中途半端に間違いないようである。

この中途半端な人間が、村の教育長というこれまた中途半端な職に就いて三年ほどになる。世の中というものは面白いものだとつくづく思っている。しかし、私個人はともかく、教育長の職が中途半端だと決めつけては、暴論だとおしかりを受けることは必定なので、いささか注釈の要がありそうだ。

村条例では、教育長は一般職の公務員と規定されているが、その給与など勤務条件の実態は特別職扱いで、あいまいな地位に在ることは否めない。業務執行の面から見ても、教育委員会が子供たちによかれと考え、創意を盛り込んだ事業を企画しても、その実現の可能性は極めてうすい。地教行法によって教育委員会が独自の財政権がない上に、昨今の厳しい経済状況下ではやむを得ないとはいえ、まことに中途半端の感を免がれないのである。

教職員の年度末人事は三度経験した。

県費負担教職員の任命権は、県教委にあることは周知のとおりである。市町村教委の内申権とはなになのか、これこそ中途半端の典型といえそうである。

一方、服務監督の権限は、市町村教委にあるのが法のたてまえである。しかし、市町村教委が、それぞれ独自の判断で教職員の服務に関する諸問題を解決できないことも、周知の事実である。村の学校の教職員が、いつまでもこの村にいるわけではないし、県の教育行政が、調和のとれたものとなるためには当然のことであると、じゅうぶん承知しながらも、これまた中途半端の感を禁じ得ないのである。

法の上では、一応整然と規定されていると考えられる市町村教委の教育長の職務権限も、本質的にもう一つすっきりしないのは、県費負担教職員の服務監督をする立場の教育長が、村の職員だからということなのだろうか。

中途半端といえば、職員団体への対処のしかたも、我ながら歯がゆい限りである。年中行事のように繰り返されるストライキに対しても、指導・警告状況報告と、同じことを繰り返すしか手だてがないのかと残念に思うのである。組合関係の先生方も、子供のため教育のためと言いながら、子供を犠性にする矛盾については御一考願いたいものである。

話は変わるが、教育センターが発足してから、教職員の研修の機会が質・量ともに充実してきたのは喜ばしいことである。その結果かどうか即断はできないが、授業に本腰を入れる先生が多くなったと考えられる。自分の中途半端を棚に上げて、こう言うのは申しわけないが、授業に迷いを感ずる先生があったら、できるだけ研修の機会を多くして欲しいものである。

次に、教職員の研修や勤務時間などの服務の取り扱いについてであるが、まことに頭の痛い問題である。教育公務員特例法にあるように、教職員は他の公務員と区別されているのだから、それなりにもっと明確に特例を規定してほしいと願うものである。すっきりしない中途半端な運用で、頭を悩ます必要のない状態を切望するものである。

最後に、農村における教育行政の立場から、米飯給食について一つ提言したい。地域の要望が強いこと、施設等の経費の問題等を考え、暫定措置として米飯持参の補食給食をぜひ認めて欲しいということである。

しょせん教育とは、割切ることのできない中途半端なものなのか、私のような人間だから耐えられる仕事なのかなんともすっきりしない事がらが多過ぎるように思われてならない。

ただ、子供たちにだけは、楽しく喜んで勉強のできる環境をと、この点だけは中途半端にならないようにと、厳しく自戒しながら職務に励んでいるところである。これが村民の期待にこたえる唯一の道であると信じて。

 

(大信村教育長)

 

 

 


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