教育福島0012号(1976年(S51)07月)-028page

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教育随想

 

歌を歌ったA君

玉川祥子

「うさぎとちがうな。」

 

「うさぎとちがうな。」

「からだが白いとこは、おんなじだ。」

「あれえ、すげえつめだ。」

「あ、はねを広げたぞ。大きいなあ。」

入学して間もないある日の理科学習。A君は、恥ずかしそうに遠くの方からにわとりをながめていた。

「もっと前に出てよく見てごらん。」といわれても即座に行動できず、もじもじしている。小柄なので前に出してやったら、うれしそうな顔でにわとりを観察し始めた。

ふだんから、あまり友達と話もしないし、自分から遊び仲間にはいれない性格のA君と出合ったのは、今からちょうど二年前の春。私が、ここ昭和に初めて足を踏み入れた時のことだった。

四月だというのに教室の高窓ほどの積雪。雪囲いのため冷蔵庫の中にでもはいったように冷たく、また暗かった。

小さな体に大きなランドセルを背負い、学区でもいちばん遠く、およそ三キロの道のりを一人で歩いてくる姿はとてもいじらしかった。

なんとかして一日も早く友人に慣れ元気な姿を……と願った。

まず、なんでも話せるようなふんい気づくりのために、いっしょになって遊んだり、帰宅してからしたことなどを努めて聞いてやった。また、A君の好きな友達B君をいつもそばに置き、行動を共にするよう配慮した。

しかし、「うん。」とか首を横に振る行動だけで、話してはくれなかった。

ところが、春の遠足のあとの話し合いの時、

「ぼくは、歩く時楽しかった。」と低い声で話してくれたのだ。

これには、級友もびっくりした。

「あれ、え、A君やっとしゃべった。」と。パチパチ拍手が聞こえた。見ると、目にはいっぱい涙をためていた。精いっぱいの話だったのだ。

「よくがんばってお話できたね。」とことばをかけると、ほっとしたような顔でいすに腰をかけたのである。

その後、七月の誕生会をした時のことである。前もって話をしていたので級友は、なぞなぞやお話・歌など得意になってしたが、A君は、もじもじして涙を流すだけだった。

「A君、何でもいいからやれや。」といわれると、かえって戸惑ってしまう。この次の機会を約束して、ついにやらずに終わってしまった。

幸い母親は、農業のかたわら参観日にはよく来校してくれたので、学校でのできごとを家族の前で話す機会と場を積極的につくるよう協力願った。

そのかいあってか、十二月の楽しみ会には、指名されるとすぐに立ち、みんなの前で「おうま」を歌い始めた。

心配そうにA君を見守る級友。でもきれいな声で歌ったあとには、惜しみない拍手が続いた。歌えたという安心感。でも涙をためながら席にもどったA君の姿は、とても印象深く脳裏に残っている。

「いやあ、A君。んまがったなあや。」

「やってよがったなあや。」と口々に話すことばを聞き、下を向き恥ずかしそうに「うん。」と答えたA君。

このころから自信がついてきたのか行動も活発になり、一人で遊び仲間にもはいれるようになったのである。

「おれ、金賞だぞう。」といって県の書き初め展の賞状を手にして、みんなに見せびらかした時は、まさに本来の子供の姿だった。

あー、やっとみんなに追いついたかとほっとした気持ちだった。

偏食がちなうえ、生来、発育があまりよくなかったこと、近所に同年輩の者がおらず幼い弟と遊ぶことが多かったために社交性や協調性までもが失われていたA君。でも今では、すっかり元気な姿にもどってくれた。

特にこつこつと書き上げた絵が、雪国の絵展で特別賞を受けたことは、本人や家族の大きな心の支えになっている。

誕生会の時、「強い心と丈夫な体の人になってね」といって渡した色紙をじっと見つめていたA君。いったいなにを考えていたのだろうか。長い冬をじっと耐え、ようやく訪れた春の光を全身に受け、力強く頭を持ちあげ、花を咲かせる福寿草にも似た心境だったのだろうか。「A君、がんばれ」と祈らずにはいられないのである。

 

(昭和村立下中津川小学校教諭)

 

 

 


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