教育福島0012号(1976年(S51)07月)-030page
教育随想
組主任雑感
高木敏夫
私の教員生活も、はや二十年余を経過した。あいも変わらず試行錯誤の連続で、戸惑うことばかり多い毎日である。とりたててどうということのない私の教育経験だが、高校の教員にしては、比較的長期間組主任をつとめたのがとりえかもしれない。全日制、定時制、共学校、男子校、女子校、実業校と十八年間にわたってさまざまなクラスを受け持ったのも、今にしては貴重な経験となった。組主任のお鉢がこうもしょっちゅう回ってきた陰には、勤務校の校務分掌割当の都合もあったのであろうが、どうやらそのおりおりの校長さんから、私のがき大将的素質を見込まれたのが大きな原因らしい。現金なもので、組主任として生徒とワイワイやっている年は、水を得た魚のごとく元気があるのだが、ない年はなんとなくつまらなく、毎日の仕事にも張り合いがなくなってしまう始末である。
私は理科の教員なものだから、毎日の生徒に対する話などは、どうも文科系の先生に比べてボキャブラリーに乏しく下手くそである。いきおいくどいお説教になってしまうのが落ちである。生徒の方も良くしたもので、また始まったというような顔をして、こちらの言おうとしていることを読んでくれている。でも繰り返し繰り返し講釈しているうち、生徒もその気になってくるから不思議なものである。どうもあまり近代的な教師像でないことは確かのようで、この点大いに反省しているしだいではあるが。
生徒との意志の疎通を図るべくいろいろなことをやった。学校での日常的な接触のほか、個人面接、家庭訪問、ホームルームの変わるたびに同窓会館やユースホステルを利用しての合宿、修学旅行が終われば紀行文集、卒業時には記念文集の発行、はてはホームルーム新聞などという商業紙まがいの日刊新聞を作ったりまでした。どう見ても、教科指導よりホームルーム指導に熱がはいり過ぎていた一時期もあったように思う。
かといって、そういったやり方の一つ一つが必ずしもすんなり効果的な反応となって返ってくるとは限らず、あるときは生徒とともにその成功の喜びに浸ったこともあるし、反面やり過ぎて逆効果になったことも少なくない。無理押しはいけなかったかな、などとわかりきった反省をするときなど、いささか惨めでもあった。
しかし、卒業して行った連中が、三年間の起伏に富んだ高校生活の思い出を便りに書き綴ってよこしたとき、同級会などに出席して過ぎし日のあれやこれやを語り合うとき、やっぱりやるだけのことをやっておいて良かったというそうかいな気分に浸ることができるのも事実である。
私などがいまさら言うまでもないことかもしれないが、ホームルームというのはもっともっとたいせつにされなければならない場面なのではないだろうか。生徒会や部活動等に情熱を燃やしている生徒もいるし、それができるのは望ましくけっこうなことである。
しかし、生徒会や部活動への参加はある程度個人的な選択の余地があるのに対して、ホームルームにはそれがなく、いやおうなしに所属しなければならない教育集団である。そうである以上、ホームルームが単に学習指導上の便宜のために編成された集団であって良いはずがない。組主任と生徒の歯車が全くかみ合わず、あじけない高校生活を送ったという例を聞くにつけ、なにかと考えさせられることである。
組主任がき大将を自認する私は、今日もまた卒業生からの音信に、元気でがんばっているであろうその姿を思い浮かべつつ、せっせと返事をしたためている。
(福島県立磐城女子高等学校教諭)