教育福島0012号(1976年(S51)07月)-031page

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教育随想

 

グループ学習におもう

飯塚俊夫

直接受ける小学部低学年から対策を求める声が出たのは、当然のことと言える。

 

私の担当する小学部四年の学級に、いまだに自分の氏名を正確につづれず数も十まで数えるのがどうにかという子供がいる。学年別の学級編制を行っている本校では、他の学年にも同様な子供がおり問題となっていた。この現象は、し体不自由児教育の本校に、重複障害をもつ脳性まひ児の占める割合が増えてきたためでもある。その影響を直接受ける小学部低学年から対策を求める声が出たのは、当然のことと言える。

そこで試行されたのがグループ学習すなわち能力別学習である。一年から四年までの子供が、四段階五グループに分かれ、国語、算数を週二時間ずつ学習し、進度に応じて他のグループへ移動することとしてスタートした。個個の子供の弱点を拾い上げ、日常の授業ではどうにも手の届かない部分を補うこと、また、基礎学力を確実なものにすることをねらったものである。

子供の間には、初めのうちこそ他学年の者と学習することへの抵抗があったが、次第に慣れ、協力して学習するようになった。Dグループの例を見てみよう。

Dグループは小四男子二名、小三女子二名、小二女子一名の計五名である。いずれも脳性まひ児で、学習は日常会話や色、形、順序等の判別を主にしている。この子供たちに共通の問題としては、学習以前の、生活面での非協調性にあった。その原因の多くは、理解力の差にあったといえる。画一的な学習や生活は、彼らのリズムとは違っていたのである。現に、彼らはグループ学習を楽しみにしている。学習内容がゲーム的要素の濃いものであるからかもしれない。環境が普通教室ではなく畳の部屋であることからかもしれない。しかし、グループ学習のための移動の際には、五人の子供が互いに呼び合い車いすを押し合ったりして仲良く移動して行く。学習の準備や後かたづけ等実に積極的、協力的である。従来、学級では、常に級友から注意される側にあった子供が、今度は他の子供を注意するようになり、平常の授業にも、落着いた態度でのぞむことができるようになってきた。学習段階は初歩的なものであるが、遅々として思うように進まない。しかし、子供の明るさや、活発さに救われる。なにげない遊びの中で、ついさっきまで、「十」まできちんと言えなかった子供が、元気な声で数えられるような場面があるのである。指導する側が、必死になって組み立てたメニューを押しつけても、結果は消化不良を起こしてしまうだけでしかない。子供たちの周りに置いて、最も抵抗の少ない形で与え、また、子供といっしょになって学習の糸口を見つけてやる、という教育の根本的なことを、私は体をとおして得ることができた。

Dグループの子供たちは、グループ学習の場面で、お互いの存在を認め合うことができるようになり、他の場面でも、協調できるようになってきていることは、効果の現われとみてよいように思う。

グループ学習の実施により、子供たちの間にわずかではあるが、その効果がみられるようになった。指導する側には、まだまだ改善しなければならない点が多々ある。しかし、進学優先の詰め込み教育とささやかれ、子供に競争心をあおり、孤立型の傾向を強くし人間社会に最も必要な共存共栄の意義を知らせることから遠ざけてしまっていることを、深く反省しなければならない折、私は最も人間的触れ合いを必要とする特殊教育の中にいて、子供の実状に密着した指導のできる喜びをかみしめるものである。

特殊教育は、最近ようやくクローズアップされつつあるが、まだまだ正当な理解を得るには至っていないのが現実である。施設・設備等が、子供の現状にそぐわなくなってきてもいる。しかし、その中に響く子供の声は明るく未来を目指している。

 

(福島県立平養護学校教諭)

 

 

 


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