教育福島0013号(1976年(S51)08月)-024page

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教育随想

 

子供とともに

国分米子

して四回の異動はあったが、はやくも十年間が夢のようにすぎ去ってしまった。

 

幼稚園に勤務して四回の異動はあったが、はやくも十年間が夢のようにすぎ去ってしまった。

卒業して最初に担任したのは、教会幼稚園の年長組だった。自分勝手にふるまい友だちにけがをさせたり、乱暴をはたらくため目が離せなかったりする子で、自分までが泣きたくなることもしばしばだった。附属小を目標に塾通いをしていつも青白い顔をしていた子、また、背は低かったが人一倍負けず嫌いで泣きながらでもがんばりとお、していたK男、思い出せばきりも限りもない……。

勤務の関係で一年の短いつきあいで、それ以来その子たちに会うこともなかったが、もう高一である。「受験勉強でがんばっています。」と、K男の母親がかわって知らせてくれたのは、今年のお正月のことである。合格発表の時早速新聞を見る。K男は思っていたとおり合格していた。その他同姓同名もいるかも知れないが、その時の園児の名前を数名みつけることができ、自分のことのようにうれしかった。

ことしの五月、ふとしたことでK男のことを知ることができた。小学校のころ教会に行っていることは聞いていたが、高一になっても教会に通い、今は大人の集会にも参加し、熱心なキリスト信者になっているとのこと。そして亡き園長先生の墓参りをする程立派に成長したことを知らされた時は、何ともいえないうれしい気持ちでいっぱいだった。

二年間の継続保育も経験した。やはり四歳児は幼いところがたくさんあった。友だちといっしょに行動することができず勝手にふるまう子、おしっこをもらしだまって立っていたA子、とりかえて部屋にもどるとまもなくまたもらして泣きわめく。とうとう家から着がえを何組か持ってきてもらった。またB子は「私、着がえてくるの。」とすぐ帰ろうとするので、町の中を何回も追いかけたことがあった。しかし二学期になると、A子・B子はもちろん他の子もだいぶおちついてきた。年長児になるとA子・B子もいっしょになって、お兄さん、お姉さんぶりを発揮し新入児の世話をしてあげていた。一年前のことがまるでうそのようにみんな成長し、保育活動にも一段と活気がでてきた。

七夕発表会の時、おもちゃの交響曲Aの部の器楽をやった。発表会も終わったので、Aの部で打ち切る予定だったが、熱心に演奏する姿をみて、くりかえしが多いBの部もやらせてみたい気持ちになった。「この続きもう少し残っているんだけどやってみたいと思わない?」とそれとなく聞いてみた。「やらない。」という声がかえるのではないかと思ったら、いっせいに「やってみよう。」という声。途中であきてやめるといいだすのではと思いながら進めていったが、根負けすることもなく一年かけA・Bの部をやりとげた。三月のおわかれ会には、指揮者も園児の中からかって出るものがいた。本当に教師と園児が一つになって、ともによくがんばったものだ。完成した時は、全員「とうとうやった。」とばかり喜びあっていた。子供のいう通りにしてあげてよかったと、二年保育でなければ経験のできない喜びを私自身も味わうことかできた。

その子も今は中学一年生である。買物などをしていると、そばに寄って来て学校生活や友だちのことをあれこれ教えてくれる。時には、「先生は背が低いなあ。」と、背くらべして、自分の大きくなったことを自慢することもある。

現在は五歳児十五名を担当しているが、またすぐ手離さなくてはいけない。

一年間の長いようで短いふれあいではあるが、小学校と併設になっていることもあるので、今度こそは、六年間をとおして子供の成長を見ることができるのではと楽しみにしている。やはり一年のふれあいで終わってはいけない。

子供はどんどん成長してとどまることはしない。教師である自分は、ただ子供の成長を喜んでいるだけではなく子供とのふれあいをたいせつにしながら、自分も子供とともに成長していかなければいけないということを、子供から教えられたような気がする。

 

(白沢村立糠沢幼稚園教諭)

 

 

 


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