教育福島0013号(1976年(S51)08月)-026page
教育随想
子供の心と明るさ
山崎一郎
二十余年間教職にたずさわりながらまだまだ、自分の力のいたらなさを感じている。
新学年には、いつも新たな気持ちと決意をもって児童に接してきているが年々異なる児童の姿と、いろいろな場面とに出会い、驚くとともに、ここに教育の重要さをとおして、教師の手腕力量などが強く要求されることを痛感させられる。
以下、私と子供とのふれあいをとおして考えてみたい。
一、握手をして
私は、新しい学年を担任する時には個々の子供と握手をして出会う。
すると、ある子供は、ぬっ、と、手を出し、またある子供は、おどおど、手を出す。
あたたかい手、つめたい手、はだの白い手、つめののびた手、ぎゅっと握りしめる子、こきざみにふるえる子、等々、一人一人について、何かを感じさせられる。
二、子供のレベルまでさがって
つい先日、こんなことがあった。
算数の授業中に、男の子が、突然、「先生、わかんない」と、いった。
私は、「はっ。」と、した。
指導計画にそって、丁寧に教えたつもりだったが、理解できなかったらしい。この一例をみてもわかるように、もっともっと子供の心のレベルまでさがって、子供といっしょに考えてみる必要があるように思えた。
特に、集団の中での児童を、あまりおとなに見すぎてはいないか。と、三、友だちから好かれないM男
学級内の一人一人を見つめるとこのような子もいる。
M男は、十七名(在籍三十二名)から嫌われている。
その理由は、らんぼうだから。きかないから。わがままだから。遊びのじゃまをするから。などである。
この子の家族は、両親と兄(中二)の四人で、本人の気ままさが目立つ、
しかし、一見さびしがり屋で、男児がだれも相手にしないと、女の子と遊んでいる。学級での言動は、自分を素直に省りみることがすくなく、反対に友人のことをとやかくいう。
そこで、この子に責任のある仕事(飼育栽培係)をさせ、集団生活の意義と自分をみつめさせる機会と場を与えた。
このように、一人一人の児童を観察していくと、それぞれにいろいろな問題がある。しかし、子供は子供なりに向上しようと努めている。
そこで、教師は、一人一人の問題や障害を、子供とともに考え、排除したり、乗り越える力をつけたり、耐える力をつけたりすることが、たいへん重要なことではないかと考える。
そして、子供とともに苦しみ、その難関を切り開くことができたときに大きな、心の通じ合いが感じられると思う。
たぶん今から十一年前の秋の頃だったと思うが、機会あって、東京都のK中学校の国語科の授業を参観した時のことだった。
その授業者の態度に、大いに学ぶべきものがあり、印象が強く今もって忘れることができない。と、いうのは、終始「にこやか」に授業を進められたことである。
その表情は、自信に満ち、姿は偉大さを感じさせるほどであった。
生徒の発表をたくみにとり入れ、受容し、ことばのはしはしにも、あたたかさが感じられた。
この先生の、明るい心構えや態度が生徒の生気をも促していたのかも知れない。とにかく、話しにすいつけられゆったりとした中にも、時のすぎるのか速くさえ感じられた。
これが、子供の望んでいる教育的ふんい気であり、教師と児童生徒の情感的関係ではないかと感じさせられた。
この授業を参観した後も、朝のようなさわやかな気分になり、そして、次時はどう発展するのだろうか。と、期待感にあふれるほどであった。
私は、今でもその時の授業を範とし時々思い浮かべている。
(郡山市立小泉小学校教諭)