教育福島0013号(1976年(S51)08月)-027page

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教育随想

 

新採用教師の独白

赤塚公生

は、新採用の新米教師として悪戦苦闘した昨年一年間のことを懐かしく思った。

 

七月、期末考査の日、珍しくしんとした教員室で、私はぼんやり窓外のテニスコートと、木立ちの向こうの青い初夏の空をながめていた。学校が静かなのは、いつも元気な声をはりあげてクラブ活動に熱中している生徒たちがいないからだ。無人のコートに、木々は緑の陰をおとし、忘れられた白いボールが、静寂をいっそう強めている。そのボールをながめながら、ふと私は、新採用の新米教師として悪戦苦闘した昨年一年間のことを懐かしく思った。

現在、私が勤務している塙工業高校は、県下最南端に位置する、電子・電気・機械三科の、比較的小規模の工業高校である。進学率の増加に伴う、学力.生活指導両面での様々な問題と無関係でも無関心でもありえない、大半の高校と共通の悩みを持ちながら、一歩でも前進しようと努力している高校である。

新採用といっても、私は、ある高校での一年間の非常勤講師を経験していたし、その意味で、授業に対する全き戸惑いからは免除されているといってよかった。しかし、工業高校という、これまで経験したことのない新しい環境で、社会科という文化系の学問を教えることに、一まつの不安はあった。

三年の「政治経済」を中心に担当することになり、しばらく授業をしてみて、私は、生徒諸君が時事的関心にはなはだ乏しいことに気付いた。「政治経済」という科目に対する様々な見解があることは、もちろん承知の上で、私自身は、政治学上の概念や観念はそれ自体生硬で、高校上級生といえどもなじみにくいものであるだけに、絶えず現実の様々な事象との関連をフィードバックさせていく必要がある、と考えていた。

最初の一月は、「新聞の読み方」で終わってしまった。

「難しいことを易しく」−そうできた、と言うだけの自信は私にはない。しかし、その言葉を目標に、資料を集め、プリントを作り、文化系の科目に興味のない生徒でも、おもしろいと思えるような授業はできないだろうかと私なりにがんばったつもりだった。

その成果かどうか、秋になって生徒たちが連れだって私のアパートに遊びにくるようになった。

一番足繁く来たのは、K君という東村から通学している生徒だった。

私のアパートは三部屋あって、真中の六畳を居間に、三畳の小部屋を私自身の書斎に、そして、縁側のある八畳を書庫兼寝室にして使っていた。この八畳の部屋には、私が大学時代買い集めた三千冊余りの本を雑然と積み重ねておいたのだが、無類の本好きで、勉強家だったK君には、この部屋がよほど魅力的だったのだろう。「先生は、まだまだだめですが、この部屋はいいですね。」などと、逆に私をけむに巻いて、日曜日など、朝から一日中こもっていることもあった。

自宅が遠いせいもあったが、彼は、時折り、私のアパートに泊まっていくようになった。

読書をする時、人はどうしても神経質にならざるを得ないものだが、K君なら私も安心していられた。夕食後、定められたお茶の時間を除いて、全く話をせず放っておいても、彼なら気づかう必要はなかった。それに、私にとって楽しかったことに、彼は議論をして時折り私をやりこめるだけの才気を持っていた。

しかし、私が本当にK君を好きになったのは、彼が礼節に厚く義理堅い人間だったからだと思う。本を読んでゆくお礼だと言って、彼は私の部屋を掃除し、食後の後片付けをし、ふろをたき、ぞうきんをかける。そういった仕事をいとわないのである。

このK君の例のみにかかわらず、私は、実業高校の生徒の良さは、性格が実直で、汚れ仕事でも比較的嫌がらずすることにあると思う。私自身の少ない経験から、こんなことを言うのはせんえつなことなのだが、一般に普通高校の生徒の方が、チャッカリ屋で、甘えっ子的な性格を強く持っているように感じる。

「ふれあい」−それなくして、教育という仕事は成り立たない。それは、あまりに自明なことであるかも知れないが、その初心を忘れず、信頼される教師としての道を進みたいと思う。

 

(福島県立塙工業高等学校教諭)

 

 

 


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