教育福島0014号(1976年(S51)09月)-024page

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教育随想

 

Kとのきずな

蓬田良子

それでは、簡単に自己紹介をすることにしましょう。右側から縦にいきます。」

 

「それでは、簡単に自己紹介をすることにしましょう。右側から縦にいきます。」

始業式当日、統合によって初めて顔を合わせた級友がかわすあいさつである。

「さあ、最初の人どうぞ。」と促すと、やっと重そうに腰をあげ、私の顔にいちべつをくれるなりプイと顔をそむけてしまった。これがKである。「ははあ、聞きしにまさる手ごわさだな。」と思った。

きょう二年四組を担任するに当たって、七地区から集まる四十三名の生徒像をいろいろな資料から描いていた。そのなかに、成績は思わしくないが日常生活は普通、ただし、先生に対する拒否反応はなはだしいという生徒がいた。これがKである。女生徒に意地悪をし一年で数回問題を起こしている。

最初の学級の時間なので、明るく楽しいふんい気で終始することを望んでいた私は、予想される成り行きにしょう然となった。が、とにかく、Kの口から発する第一声を待った。五分待ってみた。しかし、とうとう彼はひとことも発しないまま腰をおろした。

この時私は考えた。これからの毎日、とことん接近して、彼の重い口ととざされた心のとびらを開いてみようと。

次の日から根比べが始まった。逃げ腰の彼を見つけては、K、Kを連発して手元に引き寄せた。画びょうを持ってこいとか、紙を切ってくれとか、教科書を見せてくれとかいったたぐいである。返事はかえってこなかったが、ついていれば仕事はきちんとやる。そんならひとつ筋肉労働を通して彼の心に食い込んでやろうと思った。

清掃の時間は実質十三分。全員作業である。この時間は、担任と生徒との心の交流を図る絶好の場である。当分の間この機会をKとのものにしようと心にきめた。ガラスB係のKに、タオル地のガラスふきを与えいっしょにみがいた。思考教科の学習とは違い緊張感から解放されたこの時間には、彼も気を許し話をする。

六月のはじめ、「この時計動かないよ。どうしたのかな。」との私のひとりごとを耳ざとく聞きつけて、「電池がなぐなったんだべした。」とKが近寄って来た。「どうしょう。」と顔を見ると、「おれ、買ってきてやっかい。」と彼。これはしめたと思った。Kの手になる時計が教室で作動する。「しゃ、帰りにお金やるから頼むよ。」「うん。」と明るい顔。たったこれだけの会話を、私は何べんも心でくり返した。この二か月間。K、Kの連発をどのくらいしただろうか。しかし、安心してはおれない。授業中の指名に対するソッポ向きは続いているのだから。

七月上旬ごろより小さい声で返事をするようになった。しぶしぶである。

この頃、昼食後の時間を利用しての個人面接の何回目かがKにまわってきていた。小鳥や二十日ねずみが好きで飼育している話を楽しそうにする。

夏休みに家庭訪問をする。母親と話をして五分も過ぎたころ、私の背の方から「ああ、先生いらっしゃい。」とはずんだKの声があった。そのなんとさわやかなこと。こういう声が学校でも聞かれるようにしたいと切に思う。

九月半ば、S先生が「Kに、おはようございます。といわれましたよ。」とおっしゃる。わきでK先生が「おとなになりましたね。」とつけ加えられる。この頃、彼のソッポ向きもなおり、Kの連発もしなくなる。

かくして三年を迎える。Kのことがあまり話題にのぼらなくなる。

三学期、縫製工場に就職が内定する。突如、定時制進学を申し出る。全力で学習のまとめをすることを約束し、夜十一時頃、電話訪問をしては激励する。

三月九日、下腹部痛のため入院。十日手術。その後余病を併発する。卒業式も入試にも応じられなかった。

今年一年は養生に専念すべきであるとの医師の話から、就職も断念する。目下、通院治療中である。

やっと独り立ちできると思っていた矢先のことであった。

来春、入試を受け、就職が決定するその日まで、私の彼への進路指導は終わらないのである。

 

(川俣町立川俣中学校教諭)

 

 


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