教育福島0014号(1976年(S51)09月)-027page
教育随想
音楽美にひたる心
五十嵐 ヨシミ
今年も暑い夏がやってきた。
『音楽の基礎能力を高める指導』という主題で行われた中教研音楽部会の席で、指導助言の先生から音楽の基礎についての説明をおききしているうちにひどく心うたれた言葉があった。“基礎とは音楽美にひたる心である。
音楽美とは、作曲者が訴えたいものを音楽の要素を使って表現したものであるから、その心は聴く人の出会いによって違ってくる。即ち、一人一人が感覚の陶やにおいて、知識、技能の面でどの位深まりを持っているかということ、そして更にたいせつなことは、人間としてどのくらい高まっているかということである。”と。
私はこの話をきいているうちに、私たちが生徒とともに求めてきたもの、音楽の授業で、あるいはクラブ活動の中でたしかめ、究めてきたものがわかってきたような気がした。
夏休みに入ると同時に白熱化してくる部活動、それが我が音楽クラブである。
今年もまたその季節がやってきた。
声が出なくて悩まされた昨年のこと。
一人一人の声はじゅうぶん出るが、ハーモニーとか、バランスをつくるのに苦しんだ一昨年のこと。
部員一人一人の心がバラバラで、心のハーモニーを生み出すのに苦労を重ねた年、など。
思い出すと際限なくあつい夏ととり組んだ過去の姿が目の前に浮かんでくる。しかし、どんな時でも、そこには力強い多くの同志者の姿、生徒というかわいい協力者があった。
声が出ない三年生の指導に手をやいている時、卒業した先輩が来て歌の輪に入って声をきかせてくれた。あとで聞くと部長が電話で連絡しておいたとか。
男の生徒が休むとリーダー格の生徒が電話で呼びつけて集めてくれた。
「腹筋」をさぼっている男生徒の足をひっぱって指導していた部長の姿。
腹式呼吸の方法がのみこめない一年生に手とからだで教えている三年生。それは、文字どおり私の手足になって動いている生徒の姿なのである。
入部したばかりのころはヨチヨチ、オドオド。先輩の言うとおりにしかできなかった一年生も、二年生になるとからだもガッチリ、発声もしっかりしてきて、目標もちゃんと持つようになる。“歌が好きで入った”が“趣味や特技としての音楽にみがきをかけたい”などと生意気な表現までするようになる。更にそれが三年生になると、態度にも発声にも落ち着きとみがきがかかり最後の年という心情からか、“コンクールでは是非入賞したい”という言葉が必ず出るようになってくる。
私はこの変化というか、変容のしかたをみつめながら夏休みを迎えるのである。
夏休みに入ると中体連から解放された男の生徒が入部してくる。十名程度であるが、まず音楽の好きな生徒たちである。
厳しい運動クラブの練習を経験してきた者ばかりであるが、それ以上の厳しい腹筋や発声練習にまず音をあげる。そして必ずといっていいくらい、一人か二人の落後者が出る。私はそれでも知らんふり。そのうちお互いに励まし合いながら、いつの間にかまたメンバーがそろう。
そんなことのくりかえしをしているうちに、いっか全員の心が不思議とぴったり一つになる時がくるのである。それは、むずかしい曲を八分どおり歌いあげたころだろうか。夏休みも終わりに近づくころであろうか。
うたって、うたって、腹の底から声を、心をふりしぼって、フィナーレをうたいあげる時、なんとも言えない音楽美に感動するのである。
部長が高らかに掲げた目標の三つ。
一、楽しく充実したクラブにするために、自主的に参加する。
二、、心を合わせ、技を磨き合う。
三、県大会に出場し、入賞する。
この中に、子供らの願いと姿があるのだと思う。そして、厳しい練習の中から育くまれる協調の真のよろこびに、また美しいハーモニーの中に、私は音楽美にひたる心をみたような気がするのである。
(喜多方市立第二中学校教諭)