教育福島0014号(1976年(S51)09月)-029page
教育随想
心のきずなを求めて
高石 美智子
どろんこの両手を合わせ、「先生。ホラ」とそっとひろげた小さな手にうす緑色のかわいいふきのとう……。理科の観察にとひとりごとのつもりでつぶやいたはずが、次の朝、「先生。ホラ。」と空かんに入った無数のかえるのたまご……。二年間のもち上がりで教師のくせも欠点も学習指導のステップも、お説教の進み具合いまで、すっかり承知している子供たち。今年の担任発表でまたこの子供たちといっしょに勉強する幸運に恵まれたのであるが、正確にいうと、組み替えのために半数の子供が三年目になるわけである。
“子供は教師を選べない”、いつも念頭におこうと努力していることではあるが、結局今年も、学年末学年始めの忙しさに負けて、「ぶつかってみよう。」といういつもの気持ちでスタートした。しかし、つまずきはすぐ起こった。授業中は活発に発言し、学習のステップに沿って予習復習を忘れず、休み時間は我先にと私の手を握り、ひざにはい上がり、後ろから目隠しして「だあれだ。」と問いかけるにぎやかな子供たち。じゅうぶん力はあるのに何かに圧倒され遠慮がちに遠くから眺めているだけの子供たち。ハッと冷水をかけられたような気持ちで、思わず「まずいっ。」と口走り子供たちに顔をのぞかれたのは、新学期も始まって四、五日あとのことだった。二年間の慣れ合いからいつもの調子で進み始め、初めて受けもつ半数の子らに注意しなかったのがそもそもつまずきの原因だった。これではいけないと私がとった手段は、傍観者的半数の子供たちに視点をおき、学習のステップ、ノートのとり方、発表の仕方、席の立ち方からいすのかけ方、給食のとり方、さようならの言い方まで、どの子にとっても目新しく新鮮なものとして受け止められるような形のものへと変えてみた。休み時間は遠くで眺めている子らへ用あり気に近づいてひとこと、ふたこと。握手戦法は変りばえのない手法であるが、しっかり発表できると初めての子らには特に強く握りしめ励ました。花一もんめをやる時は必ずこの子らと手をつないだ。やきもちに似た態度を示しながらも黙ってついて来てくれる半数の子供たち。何かに気づき、何かを信じて熱心に取り組んでくれる半数の子供たち。なんて良い子たちだろう。私は感無量になりながらも、ただがむしゃらに日々を重ねた。少しずつ恥ずかしそうに語りかけてくる子がふえてきた。遊びのこと家族のことなど聞く耳をいくつもほしくなった。両腕にぶら下がる人数が増えてきた。
五月二十二日、土曜日、いつものように、「おはよう。」と教室の戸を開けるなり、「おはよう。」のかわりに聞こえた「おめでとう。」見る見るうちに山となった教卓の上の紙包み。「先生。あしたお誕生日でしょ。」といってくれたのは、あの消極的なE子だった。「先生は花が好きだから。」とピンクの花の咲く鉢植えのサボテンをくれたのは男の子だった。プレゼントの数々は実はどうでもよかった。クラスの一人一人が恥ずかし気に言ってくれた「おめでとう。」が、感情の高ぶっていた私の胸に更に熱いものを感じさせてくれた。疑いも抱かず教師を絶対的なものとして信じてくれるこの子らとのめぐり合いに感謝し、ありがとうをくり返しながら、どうかこの子らに幸せをと祈りつつ、感激の時に酔いしれたあの五月の朝を忘れることはできないだろう。この時私は、はっきり、心と心を結ぶ一つのとびらが開かれた気がしたのである。
今の私に、やがてこの子らが対面するだろう数々の障害に、勇気をもって立ち向うべき力をたくわえるためのささやかな手助けができるとしたら、その時こそ、心のきずなのたいせつさを信じることができるだろう。そのためにも、私自身、もっともっと研修をつみ、人間として教師としての自己を高めていかなければならない。
今、一つの約束を胸に、学級づくりに取り組んでいる。願いごとは天にとどくまで黙っていなければ、と、子供と教師が一つになり、ひそやかなひみつを楽しみながら……。
(只見町立朝日小学校教諭)