教育福島0015号(1976年(S51)10月)-025page
教育随想
“教え育てる”ことのむずかしさ
角田 恵美子
長い夏休みも終わって始業式の日、校舎は昨日までの静けさをやぶって、楽しげな話し声、笑い声でさざめいている。
私は、「だれか休んだりしていないかな。」などと考えながら三階へと階段をのぼった。
「先生は毎日学校に来てたの。」
「先生!計画通りにいかなかったよ。」いつになく生き生きとした活気ある子供たちにかこまれて、教師としての幸せをふと感じた。
夏休み中に現職教育の課題もあって
「学び方を育てる授業のしかた」という本に刺激され、二学期は1発表のしかたの約束 をつくってみょうがなどともくろんでみたのだが、現実はどうだろう。
いざ授業になると、こちらができるだけ親しみやすい言葉で話しかけてもA君・Mさんの番になると、なかなか返事がかえってこない。そこで私はあの手、この手で問いかける。発表のルールどころではなくなってしまう。そして、彼等の本音を聞き出せないもどかしさだけがいつまでも心に残る。
「あしたはどう話しかけようか。」と、家に帰っても頭から離れない時がしばしばある。
また、集団行動のある日には"躾"というふるめかしい響きを持つことばが思い浮かぶ。
(教師という仕事にたずさわって十数年、折にふれ気にかけてきた言葉でもある。)
「着がえはたたんで。」
「使った物は片づけて。」
「ほかの人に迷惑をかけるから、早く用意をして。」と、つい私の口から出ることば。
教室の中で帽子をかぶっても、室内にゴミが落ちていても、注意されなければかまわない子供が多いと言われる昨今、はたして家庭での生活習慣の中で、どれだけのしつけがなされているのだろうか、と、考えざるを得ない。そして、学校では、そのしつけのどれだけを分担すべきなのか悩まずにおれない。
教科指導は学校で、しつけは家庭でと、はっきり割り切っている人でも、学習指導の中で、はみだした子供が他の子供に迷惑をかけるからとあくせくし、学習がスムーズに進められない現実に立つことがあるのではないだろうか。
一方では、人間はさまざまな個性をもっているものだと言うこともあり、矛盾は大きい。
教師はもちろんのこと、父母も、「目を輝かし、生き生きと学習に参加し、先生や友達とも活発に対話ができる子供」の姿を願っているにちがいない。しかし、反面、父母は、あるいは私たちも、"自主性を伸ばそう""子供の考えを大事にしよう"と配慮するあまり、まちがって、わがまま、身勝手な面まで伸ばしてはいないか再考してみなければいけないと思う。子供の教育というものを通して、共通の悩みを持つ父母と教師は、もっと胸きんを開いて話し合うべきではないだろうか。
集団生活の中でしばしば起こる子供同志の葛藤や、関連しておこる偶発的な、しかもささいな出来事まで(私たちが子供の頃だったら、よくあることとして処理されたような気がするのに−)、内面的な本質をみきわめずに大げさにとりあげ、教師は責任の重さを嘆き、こうじては投書や訴えまで寄せられる。そして教師や学校に対する不信感さえもたせかねない昨今、私たちは父母との意志の疎通を図る努力が必要だと思う。
相互理解のもとに、しっかりしたしつけの中で育つ子供は、正しい方向にむかって向上していく力を持ち続けていけるのではないだろうか。
日ごろ、自分のおろそかにしがちな面を、反省しながら書いたつもりであるが、今さらながら、教え育てることのむずかしさをしみじみと感じざるを得ない。
(鏡石町立鏡石第一小学校教諭)