教育福島0015号(1976年(S51)10月)-026page
教育随想
「定・通教育」断想
中妻 昇
『先生、授業がとてもわかるんです。わかればおもしろいから、ぼくらだって休まないんです。』
人の子を教える者の身として近ごろにない喜びであった。夜間高校の教室での、六月のひと夕のことである。普通科三年の生徒に対する職業科目の授業なのであるが、そのクラスがたまたま四月以来一人の欠席者も無かったので、そのことをほめたときの、それはある成績不振生徒の返答であった。たしかに、ときには給食休みに、パンをかじりながらだれも例題を解く手を休めない風景も見られて、彼らの意欲に目を見張る思いがしていたのである。
ことし十何年かぶりに簿記会計という科目を担当することになったとき、ひとつ初心に帰って授業のありかたをくふうしてみようと考えた。そして、生徒の理解力や、対象が普通科生徒である点などを考えると、学習の興味を継続させるには、教師が自分の頭でものを言いすぎないことだと結論した。
本校生徒のような対象には、理論的説明は、生徒が体得したものの追認や整理であるべきで、決して先行してはならない。生徒が自分で考え自分で解く作業の時間をどこまでも主体とし、くりかえしの練習によって彼らが理論や原則を体で消化するまでは、理論的説明をじっとがまんする方針に徹した。それが正しかったという思いであった。
しかしながら、実は、生徒のこのような食いつきぶりが、教師の指導法のためであるとうぬぼれるわけにはいかないのである。簿記会計という科目は普通科の生徒にとって全く初めての、そして新鮮な科目である。そのことは、彼らがなんのハンディキャップも無く一線に並んでスタートできる科目であることを意味する。国語や数学の場合のように、彼らにとって小学校以来の劣等感のしみがこびりついている科目ならば、反応は異なるであろう。
私たちの生徒の中には、中学校での教科の評価が1や2の行列である者がかなりいる。一体なにがこれほどにわかることの喜びを知っている彼らを、劣等生の座に位置つけたのであろうか。
こんにちの夜間定時制高校は、志願者数も激減し、またその志願の意味も経済的理由ではなく、全日制に合格の見込みがないという能力的理由のものが多くなって、学校設置の当初の意義が半ば失われ、変質しつつある。したがって、生徒の勉学時間の不足と合わせて、そこでの教科指導はまことに困難である。しかし、それにくらべて生活指導はそれほどにむずかしいとは思わない。それは、生徒が働く者たちであり、勤労の汗の体験者だからである。
およそ、こんにちのような全日制普通科高校への志望状況は、一つの社会的過熱現象であり、社会の将来にとって誤った方向なのではあるまいか。
人間は、特に青年は、それぞれに自己存在の独自の意味を見いだすことなしには生きてゆけない存在であり、そして、世の中のすべての青年が、学校での限られた「教科」の学習や「部」活動等の中に、それを見いだすとは限らないと思うのである。かつて学校生活に自信を失い、将来の希望を見失った青年が、仕事の中に自己を再発見し人生に甦った事例に、しばしば出会うのである。
最近、高校教育における「勤労にかかわる体験的学習」のたいせつさが言われるようになり、本年の「職業教育の改善に関する委員会」の報告にもその点の指摘があるが、本来、年齢十五歳を越したほどの青年にとっては、まじめな勤労の体験を多少なりとも持つことは、その人格の健全な形成上不可欠なことなのではあるまいか。それは勤労と責任を重んずる心を育成するだけでなく、ときには生きることの目標と喜びも教えてくれるのである。
そう考えると、定時制・通信制教育の内容的な意義は貴重であり、現在の、全日制の補完的な役割から脱却した、新しい「勤労青年教育」が登場してもよいのではなかろうか。その場合、現状のような学校制度のままで働きながら学ぶことは、多くの青年にとって余りにも負担が重い。「勤労にかかわる体験的学習」への認識を通じて、全日制と定・通制のあいだの国の教育制度上の接近は、期待できないものであろうか。
(福島県立須賀川第二高等学校教頭)