教育福島0015号(1976年(S51)10月)-027page

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教育随想

 

信頼こそ

 

手代木宏子

 

手代木宏子

 

昭和二十八年の春、まだ残雪深い大沼郡西部の山あいの学校に希望に燃えて赴任しました。村をあげての好意と期待に支えられて、ほんとうに教師みょう利につきる毎日であり、私の一生を決めてしまった二年間でした。

転任の時には、四、五歳の幼児からお年寄りまで、皆村はずれの橋まで別れを惜しんで見送ってくださったのでした。そのあたたかい気持ちに感動し泣きはらした目と雪やけでふくれたほおをおさえながら、心の中では、父兄との強い結びつきの上に、子供たちとじっくり取り組むことのできた幸せをかみしめたことでした。

昨今の父兄と教師はお互いにいろいろの問題をかかえており、マスコミでも話題になっています。そんな時、私は父兄と教師の理解し合った結びつきが教育にとって最もたいせつなことであり、お互い理解し合い信頼されているという自信が、公平に子供をみ、正しく教えていく力を出していると思います。そして、「ならぬことはならぬ」の厳しさをきちんと指導することができると信じて来た二十年間でした。

三年前、十年間の中学校生活から小学校へもどった時、時代の大きな流れの中で、世間の教師不信、学校不信の高まりを背に受けながら、新卒のような不安感で小学生に接しました。自己中心的な考えを持ち、身のまわりの整理もできないのに、ちょっとしたことにも汚いという子供。厳しくしつけようとすると腹痛や頭痛を訴え、体育をすればすぐ足が痛くて歩けないという子供。ほんとうに変わったのだろうか。また集まりの悪い父兄会におどろいて信頼されないのかと悩んだりもしました。けれどもそれは、生活の変化から共かせぎだったり核家族が多いためであることがわかり、かえって教師に訴えたいことがたくさんありながら、出たくても出られない状態であることに気がつきました。

夏休みの一日、クラスの親子遠足で押立キャンプ場へ行った時のことです。いつもはなかなか休めない父兄といっしょに、道に迷ったり雨に降られたりしながら、互いに助け合い、話をした中で、親としての真情も知ることができ非常にうれしく思いました。

クラスに、二年の時母親を亡くしたS君という子がいます。その後あらゆる乱暴をし、友人はなぐる、集金は全部使い果たす、そのかわいい顔は真黒目つきはすさんで、体育の時間など校庭の真中に座ったきり動かないようなこともたびたびでした。そのつどしかられてばかりいるS君の心の中はみんな知ることができませんでした。

しかし、そんなある日、隣の女の子のイスに足をあげ動けないようないやがらせをしている時、私は強く注意しました。その時S君は「女も悪い。」とつぶやきました。私ははっとしてYさんを呼びなんといったか聞くと、「きたない、くさい。」と言ったという。このことばを聞いた時、私は思わずどきっとしました。そして全員の前で、ことばの暴力がどんなに人の心を傷つけるかを話し、みんな公平にするように言い聞かせました。子供たちもS君のみが悪いのではないと言って、S君を支持してくれました。

その後いくつかのできごとも同じようによく事情を聞いて扱うことにより素直さを増し、まつげのこいやさしいひとみがかわいらしくなりました。ふっくらとした指の手をきれいに洗ってやりながら話してやるとよくわかってくれるようになりました。しかし、規則を破ったりした時は「ならぬことはならぬ」で厳しくしても、反抗もしなくなりました。この指導の方針については父親も全面的に私を信じ、まかせてくださっております。

このように父兄と教師との相互信頼のうえに立ってこそ、期待するような指導ができると思っています。「なにもやってこね。」と言いながら、きちんと書いた漢字ノートをそうっと出してみせるS君の姿に、私自身が自分の考え方がまちがっていなかったことを改めて感じました。

そして、子供たちも父兄も、むかしと少しも変わらぬ心情を持ち、表面は歓迎されても本当は甘やかしをきらい公平な厳しさを望んでいるという事実に自信をもち、「S君、いつも正しく。」と心の中でつぶやきながら、四十人の子供とがんばっている毎日です。

(会津若松市立行仁小学校教諭)

 

 

 


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