教育福島0015号(1976年(S51)10月)-029page

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教育随想

 

「十年間は先生なんてもんじゃない」

斎藤俊雄

は、若い時に、よく「十年間は先生なんてもんじゃない」と言われたという。

 

ペスタロッチ賞を受けられ、現在なおも教壇に立っておられる大村はま先生は、若い時に、よく「十年間は先生なんてもんじゃない」と言われたという。

教育という営為に実際に携わってみて、その奥深さを身をもって体験する時、その言葉には、決して誇張とは言いきれない真実が込められているように思われる。

現在、教職六年目を迎える私が、時おり「先生」と呼ばれて感じるあの違和感ないし後ろめたさに似た感情は、あるいはそんなところがら発しているのかもしれない。

思えば、教師を志すきっかけは、少年時代に触れた万葉の一首であった。

銀も黄金も玉も何せむに

まされる宝子に及かめやも

リアルな目を持つ憶良が「まされる宝子に及かめやも」と歌う時、私にはそこに一つのセンチメンタルのにおいも感じとることができなかった。憶良をして「まされる宝子に及かめやも」と歌わせずにはおかなかった子供、そして、それを育てる教師−それは、自己の生を託すだけの職業として決して不足あるものに思われなかった。

だから、採用にあたって「あなたの描く教師像」という課題が与えられた時、私はそこにちゅうちょなく「教育愛・アイデア・エネルギー・力」と四つのものを備えた教師像を描くことができた。子供の可能性を信じ教育に情熱を注ぐ教師、常に問題に取り組み解決に意欲を燃やす教師、困難にも若さをぶっつけていく教師、そして、専門職として恥ずかしくない技量を持つ教師。

 

あれから六年 この六年は私にとって決して短かい六年ではなかった。種々の経験を得たということでは、もっとも豊富な六年間であった。

最初の赴任校では、十一人の子供たちと『広場』という文芸誌を創刊した。二年間で五号しか出せなかったが、最初二十二ページの詩集だったものが、終刊時には創作・詩・作文・感想文・研究を含む百八十ページの総合文芸誌となった。そして、一年の時、「はにわ」や「ランプ」という歴史的なものを歌っていたOという生徒が、二年になって「生きてるあかし」や「死」を歌うようになり、そして「たんに詩を作るだけでなく、見る目もつくりたい」というまでに至る成長の一過程も見る

ことができた。

そして、四年目、現在の中学校へ赴任した。生徒数三百余名の学校から、全校生三十数名という山間の辺地校への赴任、そして、そこに待っていたのは、すべて免許外教科の担当という現実。確かにこの一年は苦しかったけれど、それ以上に貴重な体験を得ることができた。「大きな学校で通用して、小さな学校で通用しないのなら、それは本物ではない」と言って刻苦勉励する先生方、一人何役もの役割を責任をもって遂行していく子供たち、これらの姿を目の当たりにする時、そこには甘い空想も空虚な観念も入り込む余地はなかった。ただ"確かな力"だけが要求されていた。だから、翌年、一年ぶりに国語を受け持つことになった時、"自分に甘えることだけはすまい"と思った。自分のすべてを外部にさらけ出し、その中で自分を鍛えていこうと思った。そこで、初めて自分の指導した作文を外部に出した。防犯作文、中学生作文コンクール……等々。

以来、防犯作文県一位、立県百年記念作文優秀賞と願ってもない受賞が続いた。更に、教職五年めの総括の意味でまとめた研究物(「興味・関心を深めるための古典指導法の一考察」)が本年度の中学教職員研究物の審査で優秀賞を受けるという思ってもいない幸運にも恵まれた。

“苦しさの中での努力”それは決してむだなことではなかったと、今つくづく思われる。大村はま先生、武田常夫氏をはじめ、国語の先達は数多くいる。その先達を目ざして精いっぱいがんばっていこうと思う。「十年間は先生なんてもんじゃない」と思いながら。

(南郷村立富田中学校教諭)

 

 

 


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