教育福島0015号(1976年(S51)10月)-030page

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教育随想

 

小羊の迷い

熊谷 弘

 

迷いを克服してみたいと思ったが、相変わらず不安から脱出できそうもない。

 

私にとっては、何年過ぎても、いつも「これで良いのだろうか。」という迷いと不安の連続である。瞬間瞬間の集まりが人生であるから、一秒をたいせつにして精いっぱいに生き、迷いを克服してみたいと思ったが、相変わらず不安から脱出できそうもない。

今ほど、教育について論議された社会は過去にはなかったし、教育をまじめに論じながら、それがゆがみの増大に働いている部面が割合に多い社会もなかったと思われる。それだけに、自分の人生をかける仕事として教職を選んだことは、不安と迷いの連続ではあるが、生きがいを感じ誇りに思っている。

職員に「生徒は、学校や教師を自由には選べない。選ぶ自由があったら選ばれる教師になるよう努めたいものだ。」と期待し、「量目不足の商品販売は、商人の行為としては歓迎されないと同様に、量目不足の授業があるとすれば正しい教師の姿ではなかろう。」と話し合ってもきた。

だが一方、他人に期待しながら、はたして自分は「職員が自由に教頭を選べない。」ことを思い、「選ぶ自由があったら、選ばれるような教頭であったであろうか。」という反省と不安がある。

校長が「この教頭を部下にもって良かった。」と思い、職員が「この教頭と同じ職場で学ぶところがあった。」と思われる教頭であったであろうか、という不安が常に去来する。

校長に指示されてからの行動は、幼児でもできよう。指示される前に、意図するところを理解し、それをより良い企画実践に備えることこそ、困難かもしれないが専門職としての私たちに期待されているものであろう。

校長が不在であっても、学校経営上の決裁の必要は大小さまざまに生ずる。校長に代って決断したことが、生徒や地域社会にとって信じたとおり有意義であることを念じつつも不安がある。

他から信頼されることには深く感謝するとともに、自分の力に対する不安がある。人を信じるということは、終局においてその人自身のたたかいなのだから。それで「信頼に対してはその信頼にこたえる。」という行動こそ、社会生活の基本的なものであり、道義的要請だと思う。

社会の信頼にこたえ得たか否かという不安は「自己の最善を尽くした。」ということのみで満足すべきことではなかろう。「自己の最善を尽くした。」という事のみの主張では、単なる弁解であり、自己弁護にすぎない。

本校の職員は、教科指導、現職教育をはじめ、すべての教育活動に真剣に取り組み、学校経営にも積極的に参加し、意欲的に努力している。その努力と行動に敬服し、心からの感謝と静かな誇りとを持っている。

だが、こうした職員の真剣さと積極性に対して喜びと同居する不安がある。この意欲的な活動をじゅうぶんに生かすような無駄のない企画や指示や運営であろうか。それが不得要領のため、必要以上の労苦を与え、努力の割に教育効果が減殺されてはいまいかという不安である。もっと良い方法やアイデアはないものであろうか。

教師として、全力を尽くして生徒を指導するが、それに迷いと不安がある。人生の大部分を二十一世紀に生きる生徒たちであるから、真の教育は二十一世紀に役立たねば無意味である。その見通しによる指導こそ、わたしたちに課せられている教育である。それが誤ったら悲劇であり、生徒に対する責任は誠に重い。この迷いの中できょうもまた指導している不安がある。

二十一世紀への見通しと教育理念から現在のあり方を非とし「入試合格のみが人生ではない。」と実践を試みても無視されよう。現在を無視しての二十一世紀や将来は生徒にとってあり得ない。目前に入試の事実.がある限り、合格のための指導もまた人を生かす道とも考えられる。そこに矛盾があり、実践と理念の悩みと迷いがある。

実行のない理論は空論であり、また理論のない実践には誤りが多い。ここにまた不安と迷いの種がある。だが、・私は教師であったことをあらためて誇りに思い、あせらず、怠らず、不安や迷いと対決していけるよう、不断の努力を重ねているところである。

(いわき市立錦中学校教頭)

 

 

 


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