教育福島0015号(1976年(S51)10月)-031page
教育随想
しつけについて思うこと
松本 久
わたしが尊敬している大学教授からの話をまず紹介する。
海外生活二十年にも及ぶこの大学教授が、ペルーの大学に招へいされ、諸外国の教授たちと国際村で生活をともにしていたおりのことである。
ある日のこと、隣家のフランス人教授の小学校一年になる一人息子が、仲間数人と悪ふざけにも近いようなボール遊びに興じていた。
しかも、日本人教授宅の庭先でのことで、早晩、ガラス窓などに暴投の予想ができ、ハラハラしながらながめていた。教授夫妻は「さて、注意をしょうか、どうしたものか。」と迷っていた矢先、案のじょう、ガラスを壊されてしまった。
国際村の中では、特に親しい交際を続けていた間がらでもあり、つい遠慮勝ちとなり、注意をすることをちゅうちょしていた結果なのである。
まあ、そのうち母親からあいさつがあるだろう。その時は、いやみなど述べずに笑顔で応待しなくちゃ……。と考えていた。そうこうするうち、当の坊やが一枚の大きなガラスを抱えるようにして運んできたのである。
教授夫人は、さっそく、なにがしかのケーキを与えてその労を謝したというのである。
次いで、当の母親が来訪した。わびの一言でも聞けるものと出て見ると、えらいけんまくなので驚いてしまった。が、話を聞いてみるともっともなのである。
「○○さん!あなたは、うちの子をどうしてくれるのです。わたくしは、おとなですから、他人の子供が危い遊びでもしているのを見れば注意もしますししかりもします。おとなの責任ではありませんか。全くの他人の子供にだって注意をします。まして毎日親しく御交際している間がらではありませんか。この前だって、あなたのお子さんをしかってあげたのよ。どうしてうちの子をしかってくれなかったのです。ガラスを壊したのに、お菓子をくれるなんて無茶ですわ!」 .
「きょうは、お菓子をお返しします。どうしてもくださるというなら、あすにしてください。うちの子が、よい遊びでもしていた時にでも、いい子ね。とでもいってほうびに上げてください。」というのである。
フランスの母親の「おとなの責任じゃありませんか。」の中で「おとな」を「教師」という言葉に置きかえて、身近な問題として考えてみたいものである。
教育の現場で、いつでも、どこでも「共通理解」ということがよく聞かれる。それは教育の原点のはずである。
「しつけ」の連帯感から「教育」の連帯感への認識こそたいせつなはずである。一人の教師だけの力には限界がある。
一つの学校の中で、全教職員がこの連帯感の認識にたって動き始めてこそ教育の成果があがってくることになる。
次に、現代日本のしつけの弱化・混乱が叫ばれている。原因として(1)大人の自信喪失、幻家庭の知識偏重主義(3)家庭の教育機能の低下の三つがおもなものとして考えられる。親、自らが民主的なしつけに自信を持てないから結局放任とか甘やかしになり、多くの知識を貯えさせるために少しでも多くの時間を教科の記憶にふり向けようとし当然、子供にさせるべきことも親が代行する。
また、家庭教育は、異なる年齢層の家庭が、家の伝統を軸とし、愛情に結ばれて作り出す人間関係にこそ本質が求められるべきであるが、家庭のもつ構成基盤が変動し、核家族化が進行した。
そのため、家の伝統が断ち切られ、家族の年齢構成も単純化されてきた。
「しつけ」は、せんじつめれば、子供を社会に適応させ、子供の幸福を確保するためのものである。
そのためには、現在の子供の性格的人格的弱点と問題点を考え、有効にカバーしうるようなしつけの方向と方法が考えられなければならない。
その意味での問題点として、一つには自主性の欠陥、もう一つにはいわゆる耐性のもろさがあげられる。
自主性が確立していれば耐性も強まるし、耐性の欠落しているものに自主性は育たない。不満に対する抵抗力、即ち耐性は生後の経験、訓練に依存するところが大きい。過保護をなくして「もう一歩」と努力させる指導を望む。
(いわき市教育委員会教育長)