教育福島0016号(1976年(S51)11月)-025page

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教育随想

 

自分も楽しんで

 

吉川貞司

 

吉川貞司

 

放送クラブの活動や青少年赤十字活動の指導を通して生徒たちと接触してみると、教科指導とは違った別の感覚がある。

特に疲労を強く感じた時など思うのだが、拾て難い味わいが体内にしみ込んでいて、そう簡単にはやめられない。

私はどうも決断が遅い方のようである。慎重さではなく下手な考え過ぎが多いためだが、おかげでクラブ活動やJRC活動では、今こそやってあげるべきだと思うことの「機会」をのがして、せっかくやる気のある生徒の向上心を折ってしまうことが多い。

他の仕事で忙しいことも、機会を見失う理由として否めないが、それにしても活動の場に期待と抱負をもって入ってきた生徒たちに、なんの刺激もないマンネリ化された活動では、期待を裏切ることにもなろうし、クラブとしての精彩もなくなる。

本来のクラブ活動を自己流に解釈すれば、「みんなで作りあげる楽しみを味わいながら、豊かな個性を発揮して創意とくふうを生かし、やがては完成される喜びを味わいつつ自信を高め、自己を実現させようとする勇気を培う」ことだと思うのだが、そのためには顧問は生徒に対して適切な刺激や機会を与えるようにしなければならない。

いうなれば、「今度はこうしてみよう」とか、「こんないい方法があるぞ」という、そうした呼びかけやアドバイスが私にはなかなかできないのである。

しかし、できないでは生徒に相済まないし、自責の念も深まろうというもの。

非才な私だが、発見的な思考はきらいではないから、機会あるごとに考えることにしている。

JRC活動のねらいは奉仕であるが本当の奉仕とはなにか。今のように奉仕の過重では、とてもJRCの精神など子供たちに浸透させられない。JRCの本当の「よさ」を子供たちが自ら会得し、その「よさ」の中に心をゆだねたら、今と違った活動が生まれるのではないか、そのためにはどんな実践方法があるだろうか。打てばひびくように反応する指導はどうすればよいのか。

これはまた、放送クラブにもいいうる。

毎日放送される校内ニュースや異色の番組を編成して放送することは、クラブ員の意欲化や自主性をうながすことを一つのねらいとしているが、一方聴取する生徒には「聞いてよかった」という感動や知識を得させたいと願っている。

このためには、クラブ員の言語練習音楽の選択、音量調節のテクニックなど、反復指導しなければならない内容を、どう処理しながら次へのステップに踏みだしたらよいのか、同じような繰り返しの活動では、やがて「動」も「静」に変容して生徒は飽きてくる。換言すれば慣れすぎて興味を失い、次への活動など思いもよらなくなるだろう。

起った事象に必要な指導を与え、子供たちが本能的にもち合わせている伸長意欲を利用して刺激剤を注入すれば子供たちはよみがえったように次への活動を開始するだろう。私は毎日、放送直後の子供に言語、音整などを指導し大きく賞揚したり、きびしく批判する。

しかしそれは直接的な指導で、自己を実現させようとする展望的な刺激剤にはなっていない。

ではどんな刺激剤がもっとも有効適切なのだろうか、非才の思慮はしれたものだが、活動の過程ではいつも考えるのである。

私は二十有余年を経た今日まで、いろいろなクラブの指導をしてきた。しかし改めてこの稿を読み直してみるとどうやら私は、こうしてきりのない考えや悩みをもちながらも、顧問として張り切っていられるのは、結構、私自身が楽しんでいるからではないかと自答し苦笑した。

そうである。生徒の心の中にぐいぐいと踏み込んで泣いたり笑ったり、また、個性の特質をどう生かすか考えたり生徒のよさの再発見に喜んだり、そうした楽しさは体にもしみ込んでいるから、更に新しい問題も自分自身に提起して、そして刺激を与えているのかも知れない。

(郡山市立宮城中学校教諭)

 

 

 


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