教育福島0016号(1976年(S51)11月)-026page

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教育随想

 

教育と私の足跡

 

鈴木 九二八

 

鈴木 九二八

 

教育職に身を奉じて四十数年。子供たちの目の輝きに心おどらせた学級担任時代。どの町に行っても、「九二八先生だ!」と歓迎され、生きがいを感じた社会教育主事のころ。それから教育事務所長、校長、教育長と、教育ひとすじに生きてきた。

その間、さまざまな難問に当面したが、楽しく充実した毎日であった。人生即教育といった自己の足跡であったように思う。

私が、常に心がけていることは、的確な判断と決断の速さである。教育行政にたずさわる者にとって、これは、欠くことのできないことだと考える。

昭和五年新卒として教壇に立って以来四十六年、教育条件の整備は、初任当時に比較すると、予想もつかない目ざましいものがある。

現に統合中の建築に心魂をこめ、生がいの仕事として努力をしているが、種々の条件に左右され、思いの半ばにも達していない。しかし、現段階では最高の条件とすべく心を悩ましている。できるだけよい環境条件を整備し、次代の子供たちの育成に努力したい。

このような恵まれた環境の中で、知・情・意・体の総合的な学力が高められる日も間近であろうと期待を大にしている。

現在の子供たちは、本当に幸せである。恵まれた環境に埋没することなく教師も生徒もこれを活用し、本来の教育を追求すべく努力してほしいと考える。

“豊かな人間形成をめざす生がい教育”が教育の目標である。社会教育の歴史は浅いが、しかし、今日ほどクローズアップされている時はないだろう。社会教育の重要性がさけばれ、行政的な施策が講じられていることは、喜ばしい限りである。

社会教育計画は、年齢各層にわたり立てられるべきであろう。県内各地の実態を見ると、高齢者学級、婦人学級等は、非常に盛んである。私も講師として頼まれ話をすることがある。「教育長さんまた来てください!」アンコールにこたえて二度、三度と出かけていく。そんな中で、家庭の教育や人生観を語り合うのは楽しい。

しかし、青年や成人男子を対象にした学級は少ない。むずかしいから、人が集まらないからできないではなく、積極的にこれらを対象とした学級等の開設をすべきであろう。

石川町中央公民館では、 「はたちの教室」を行っている。対象は、今年成人に達した男女五十名である。八月には、磐梯青年の家において宿泊研修を実施した。美しい猪苗代湖を眼下に、雄大な磐梯山のふもとでの研修は若き青年に大きな感動を与えた。

研究討議は、“地域リーダーのあり方”であった。キャンドルサービスに討論に、若きエネルギーをこんなにすなおに表現している姿を見たことがない。このような研修をとおして、若い彼等は、地域づくりの中心的立場になる力を養っていくのだとたのもしさをおぼえた。

成人男子を対象とした学級に“石陽社大学”がある。三十歳代の男子三十五名を対象としたものである。町のリーダーとしての立場にたつ人たちである。学級生は、地方自治の学習を中心に進めながら、町のビジョンづくりに意欲をもやしている。町の実態を知りながら、未来に対するあるべき姿を追求しようとしている。現在、コミュニティーづくりの重要性がさけばれているが、その具体的な場として、このように学習し考える機会を与えてやることはたいせつだと思う。

豊かな物質文明の中で、精神力の欠如が問題とされている。これは、学校においても社会においても同じである。

教育にたずさわる私たちは、生がい各時期における教育のあるべき姿を考え、指導にあたらなければいけないと思うのである。

(石川町教育委員会教育長)

 

 

 


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