教育福島0016号(1976年(S51)11月)-027page
教育随想
S君への手紙
成田 努
S君お便りありがとう。卒業以来六か月、丁寧な心のこもった字句に何度も見入りました。お便りによりますと、社内の資格試験を目指して毎夜猛勉強中とか、うれしい限りです。
S君、我々が最初に顔を合わせたのは一昨年の四月、二年B組の教室でした。体が大きくてお人好しの君は、クラスの人気者でした。家庭訪問で知ったのですが、君は片道一時間半以上もかかる山間部から通学していたのですね。そう言えば良く岩魚や野うさぎの話をしていたっけ。君はきっと中学校を卒業するまで自然の子で、小生など近付き難いほど純真な少年だったに違いないのだと思います。でも、我々の本当の意味での出合いは、修学旅行の帰途の新幹線の車内でした。連日の疲れから、君の家人さえ気付かなかった発作が突然起こり、君は目を見開いたまま手足を硬直させて激しくけいれんし、意識も失いました。青年期にはままあることなのですが、君にとっては大きなショックだったでしょう。小生はふるえを押えるため、数分間君をしっかり抱いていました。君も全身の力で小生にしがみついていました。級友もみんなで介抱したのです。君の体のぬくみが小生に伝わってくるのがわかりました。その後の君は大きな発作も起こらず、順調に行くかに見えた高校生活でしたが、それからの君は別人のように変わってしまい、常に指導部や職員会の議題提供者になって小生をあわてさせました。今はもう過去の出来事だからなにもかも書きますが、シンナー遊び、喫煙、交通違反、遊技場への出入り、麻雀、飲酒。おまけに赤点保持で時数不足、家庭での謹慎前後六回、君は高校生として禁じられているほとんどのことをわずか一年半の間にやってのけ、担任としては正直泣かされました。でもその反面若い小生をいろんな意味で育ててくれたと感謝しています。或る教師は君の二度目の謹慎のとき早くも方向転換を迫ったし、君が新たな事件を起こす度に退学や転校という声が出なかったことはありませんでした。小生はその度に君のあの小さな声「すみませんでした。二度と迷惑はかけません。」というひとことを信じていたのです。何回も何度も信じました。あの時、小生は君が小生をだませなくなるまで信じ切ろうと決心していたのです。それは君の両親の心情を思うと当然でした。しかし、しょせんは小生も平凡な教師、ある日、実験室の片すみで後悔に身を小さくしていた無抵抗な君を小生は殴った。教師になって初めて、小生は生徒の君を殴ったのです。自分の思い上りに、反省は今も消えることがありません。
教師は常に生徒に対して絶対優位な立場に立っている。でもそれは学校教育という組織の力を背景としたわずかな経験と年齢の差だけでしかない。考えるまでもなく小生に君を殴る権利など一かけらもなかったのです。教師は時として独善的で途中の説明を省いて答だけ押しつけることがあります。小生も心しなければならなかったと思います。確かに君の数々の行為は高校生としては間違いでありました。しかし、それは普通の高校生ならだれでも試してみたいと思う彼岸への徒渉だったのです。教師と言えども君たちぐらいの時代にはあれこれ迷いながら、ただ上手に瀬踏みしながらおよび腰で渡ったに過ぎないのです。それがひと度大人という岸に上ってしまうと、それは遠い遠い世界の出来事のように忘れてしまうのです。君は山間育ちで純粋であっただけに君の軽い病気が心の動揺を誘い、他の生徒がクラブや勉学にその未知の興味を昇華していた時君は急な流れに一歩足をとられたに過ぎなかったのです。我々は神ならぬ身、完全でない者同士なのです。我々の出会いは必ずしも自慢のできる場面ばかりではありませんでしたが、それだけにいっそう小生には印象深いのです。
卒業の日、君が長髪をいがぐり頭にしてきたのには小生ならず級友一同も驚かされましたが、そればかりか別れのHRの時、見上げるような大男がオイオイ泣き出して、しがみついてきた時は小生も思わず泣いてしまいました。そしたら級友ももらい泣きして涙の卒業式になったけれどうれしかったよ。あの時の、みんなの赤い目の記念写真は我々にとっては生がいの宝物になるでしょう。偶然この同時代に生まれ合わせ、偶然出会ったこの出合いをお互いにこれからもたいせつにして生きていきましょう。
(福島県立白河高等学校教諭)