教育福島0016号(1976年(S51)11月)-028page

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教育随想

 

ふり返って

 

井関 重子

 

井関 重子

 

町から四キロ南に離れた小学校の一室を借り、昭和三十一年新しく開設された公立幼稚園に、私設幼稚園より転勤した。

私のほかに一名の職員、園児数は九十余名、設備として、旧式のオルガン一台と、ゴザだけの保育が始まった。園児たちは初めて経験する集団生活の不安と、親の手元を離れた心細さに泣きわめくもの、家に帰りたいと言ってだだをあげるもの、私は、どの子供から慰めていいのやら、ただぼう然となり自分も泣きたくなってしまった。子供たちはますます泣きわめく、オルガンをひいても五分とももたず、次の遊具は無い。その時ふと、私はみんなの関心を引く遊具になることだと思い、おもしろおかしく踊り跳ね回り、次は百面相と、次から次と無我夢中になっているうちに、いつの間にか泣き声から笑い声が沸き上がった。しめた、これだと次の日も疲れきった足を引きずりながら、帰り道で、寝床の中で、明日の遊び方を考え、喜び笑ってくれるかわいい子供の顔を思い浮かべてがんばった。

五月に入って、暖かさも増すとともに登園する園児の足取りも活気が見られ、朝のあいさつにも元気の良い声が室内に満ちあふれるようになるとともに、室内を走り回る者、乱暴する子、校庭にはだしで出て廊下をどろ足で飛び跳ねる子も出て来た。集団生活に慣れた証拠である。登園をいやがる子供も三、四名のみとなり、出勤途中に迎えに行くと笑顔を見せるようになった。設備はなくとも、園児は私の手の中にあると勇気づき、私を中心として遊べるように努力をする。

日ごとに成長振りが見られるようになり、わずかな持ち合わせの古絵本を読んでやると、静かに聞いてくれる。また、コマと、ゴムまりを与えたら少ない遊具であるが、無心になってかわるがわる使っては喜んで遊んでくれた。

遊びのみの生活からだんだん保育に重点を置くようになり、農閑期に入ってから、保護者のかたがたにも参観に来ていただいた。子供を預け、めんどうを見てもらうだけではなく、幼児教育がいかにたいせつであるかを説明した。しつけや、園との連絡等について協力をお願いし、一方保護者のかたにも元気で遊ぶ様子を見ていただき、日ごとに行動や、動作の良くなることを知られて理解を深められるようになり、心強かった。

ある日、紙一枚に使い古したクレヨン一本づつを与えたら、むぞうさにいっしょうけんめいなにかを書いている。このあどけない姿を見ているうちに、遊具の無いことにも設備の不足にも不平不満も言わず、天心らん漫として遊ぶいじらしさに胸が熱くなり、申し訳けなく、すまないと思った。こうして一年間を過ごし、かわいい幼児を一年生に送ることができたが、これも地域のかたがた、用務員のおばさんがたの支えによるものと心から感謝している。

二年目の園児が入園してきた。

相変わらずの施設設備の不足だが前年度の経験を生かし、いくらでも明るい感じの園舎にと、飾り付けなどにもくふうをこらし、和やかな気持ちで、なだめたり、すかしたりの繰り返しが始まった。

その頃「先生」と、晴れの学帽姿で行き帰りに声をかけられ勇気づけられてとてもうれしかった。更に心強いことには、予算化されていた待望の机と、腰掛けが届いた。園児たちが手をたたき跳ね上がって喜び、私も「良かったね」と、手を握り合っていると、女の子が「先生泣いているの」と、言う。男の子が近づき、「馬鹿だなー」と、いたわるようなまなざしで見上げている。なんとも言葉でいい現わすことのできない子供との触れ合いであった。

机に向い腰を掛けさせながら、姿勢礼儀、規律を身につけさせることが短い期間でできた。また、ブランコやシーソーも備えられ、元気で明るく遊び、遊具の備えによって集団生活にも早めになじみ、保護者会も結成され、幼稚園新築も話題にあがる昭和三十六年に転勤、其の後三か所の園を経て現幼稚園まで十有余年が経過している。

ふり返って見て思りことは、苦しいことつらいことも多かったが、やりがいのある他の職業では味わうことの出来ない仕事と感謝するとともに、年を追うごとに幼児教育の重要性と難しさを強く感じるのである。

これからはよりいっそう子供の懐にとけこんで、信じきって慕ってくれる子供に恥じざる教師になるように、一歩一歩を踏みしめながら前進するつもりである。

(会津坂下町立八幡幼稚園教諭)

 

 

 


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