教育福島0016号(1976年(S51)11月)-029page

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教育随想

 

厳しい先生と言われて

 

古谷幸子

 

古谷幸子

 

毎日のことだが、生徒が登校したその時から、私の全神経はアンテナのようになる。家を離れ、八時頃から日中のほとんどを学校で過ごす生徒を、親さんからのたいせつな預りものと思い、「今日もまた親代わりとしてのしつけの一日が始まる」と思うからであろう。教室、廊下で会った生徒の健康状態を、あいさつの声・顔色で判断し無口がちの生徒に一日一度は必ず話しかけ、三日続けてほころびたままの服を着ている子供はかわいそうで見るに忍びず、つい針を持つ。

親さんから、「子供が中学生になったら言うことも聞かず、なにかにつけて反抗的で困るので、先生から話してもらいたい」と嘆きの相談を受けると私も男の子二人の親、ある時期胸ふさぐ思いをしたことがあるので他人事に思えず、生徒と面接、息子と私の例で親に対する態度やことばづかいについて判じさせると、我が身のそれを反省してくれる。

年度始め、私は生徒に次のことを話す。「先生はしかるために教室に来るのではない。みんなが楽しく学習を進めていけるようその手助けをしに来るのだ。それなのにみんなはよく注意を受けしかられている。なぜ?しかられる方は気分悪いことだろうが、しかる方はもっといやな心になるので、できることならしかりたくない。先生のこの心の奥をみんな察してほしい。ところで、しかられる種をまくのは先生・生徒のどっちかね。みんながどんな地位にある親さんの子供であろうと、また、成績の良し悪し、性別など全然問題にせず、みんなを平等に扱う」と。

生徒の中で基本的行動様式をおろそかにし、思いやりがなく、人をさげすんだりせせら笑ったり、利己的で自分よがりのことばかりして、他人に迷惑をかけ平気でいる者、あっちこっちに適当なことをしゃべり仲たがいの原因をつくっては、くちびるさむしの感を抱くであろう醜いこうもり的存在の生徒など、社会に出たらつまはじきされるのが目に見えるようで、私は掌中にある今の時期、生徒の将来のためにどんなささいなことでも見逃さず善導しなければならないと思っている。一度の失敗はいたしかたないとしても、同じことのくりかえしで、他人に迷惑をかけることは許せない。しかる時は徹底してしかり容赦しない。ただしこの際だからとついでしかりはしないことにしている。この子をよくしようとあれこれ欲ばって前からの問題を引っ張り出し、長ったらしくしかることは生徒の心をいら立たせるとも反省を促すことには役立たないからだ。しかる種についてのみ、短時間内に徹底的に反省させる。次の朝必ずその生徒に会い「おはよう」と声をかけて握手し、生徒の心のわだかまりを氷解させることに努めている。

技能テストの時、励ましの意味で各人に声をかける。「うまかったよ」「この前よりうまくなったね」「むずかしい箇所は部分練習を三十回ぐらい根気強くやれよ。来週もう一度聞き直しするから」−それ以来みんな、笛の吹奏練習を自主的にするようになった。「下手だ」「だめだ」のことばは、私が生徒の時先生から言われて涙ぐんだことがある。生徒の心を傷つけその教科・教師をきらいにさせる禁句と思い決して口にしない。

父は私が教職につく時こんなことを話してくれた。「人に接する時に、子供大人・善人悪人のいずれであろうと意地悪くあたれば意地悪くはねかえり善意誠意をもって接するとその意は必ず相手に通ずる。子供は敏感で正直、教師の良し悪しをすぐ感じ、見わけ反応する。学級の子供にきらわれる担任は教師としては失格。ただし、好かれようとして子供の心をくすぐるほめことばばかりの甘やかしは、子供のためにならぬ。教育者は常に自分を律しながらよい子供に教え育てることが一番の努め、生徒に全心全霊で当たり、善意をもってことの理由を説き、ほめるべき時は、心からほめ、しかるべき時はしかる目的がなんであるか相手にはっきりわかるようにしかること。そのことに労を惜しむな」と。私の心の支えにしている言葉である。

(飯舘村立草野中学校教諭)

 

 

 


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