教育福島0017号(1976年(S51)12月)-026page

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教育随想

 

伝統ということ

小林 庄助

たものを感じ、さらに強く拍手をおくる。会場はその潮さいに包まれてしまう。

 

指揮者の手が静かに止まる。音楽がやむ。一瞬のしじまがあったかと思うと、やがてそれを突き破るように拍手がわく。「やったァ!」と私は確信めいたものを感じ、さらに強く拍手をおくる。会場はその潮さいに包まれてしまう。

今指揮を終えたばかりの千葉先生の顔も、生徒たちのどの顔も紅潮していて輝いて見える。審査員の先生が、「生徒さんたちの一人一人の顔を見ると、全くあどけない中学生なのに、音楽だけを聞いていると、大人の人たちが演奏したかのようで、ほんとうにすばらしい。この曲(序曲コリオラン)の曲想もじゅうぶん生かされていました……」などという講評にまたしても拍手がおくられる。

生徒たちの満足そうな顔がもどってくる。今までの労苦をいたわり休息させたいところだが、時計を見ると午後四時半をまわっている。この会場(郡山市立行徳小学校)から石”町までは車で約一時間。生徒たちは直ちに帰路にっかなければならないということになり、夕色のせまった会場を、バスであとにした。

結果はやはり優秀賞であった。彼らは東北決勝大会に出場する権利を獲得したのである。早くこの朗報を知らせてやりたい。しかし私の乗っている車は楽器を運搬する小型のトラックである。コントラバスが五つ、それにテンパニーやチェロがのせてある。生徒を乗せたバスは四十分まえに出発しているのだから追いつくはずはない。

すでに国道四号線は夜景につつまれていた。運転するのは教頭の遠藤先生。その隣の助手席に私がいる。そして私は管弦楽部の三年連続東北大会出場の偉業をとおして、しきりに伝統ということを考えた。

まずA子のことだ。彼女は運動をしている時首すじをおかしくした。医者の診察を受けたがどこの神経がおかされたかはわからないまま、とにかくヴァイオリンをひくことを禁じられてしまった。たいがいならそのまま管弦楽部から脱落していくところだが一彼女は踏みとどまった。そして一、二年生のパート練習の相手をしたり、管弦楽部のこまごまとした用事に走りまわっている。このコンクールの晴れの舞台にも、客席の方にいて、じっと講評を聞いていたが、その横顔がなにかを耐えているように見えて、いじらしかった。

それに今年の三年生だちである。彼らは前任の菅野克夫先生の指導をじゅうぶん受けている。先生が今春二月、心臓病で急せいされたとき、その告別式で彼らは文字どおりどうこくした。そして虚脱放心の状態にあったとき、新任の千葉先生とめぐりあったのである。

彼らは息をふきかえした。そしてベートーヴェンの序曲コリオランに立ちむかったのである。そして先生が生徒を引っ張り、生徒が先生を引っ張っていくような関係が、管弦楽部を取り巻く私たちにも感じられるようになった。

千葉先生が「いつのまにか、私は管弦楽部にのめりこんでしまった。そうさせたのは、生徒たちのあのひたむきな練習態度であった」と述懐したそのことばでも推測がつく。そして師弟ともども、日曜も夏休みもなく、序曲コリオランにのめりこんでいったのであった。

伝統とはこういうことをいうのであろう。かりに指導者が代わったとしても、いいところは弓き継がれ脈々と息づいて、いざという時にその見えざる力がじゅうぶん発揮されるそれをいうのであろう。車は四号線より百十八号線に折れて走った。車窓に見える燈もまばらになってきた。管弦楽部員の一人一人の顔が浮かび、そして消えていった。東北大会出場のこの朗報を届けたら、生徒たちはどう反応するだろう。私自身、生徒たちに開口一番、なんと言ったらよいのであろう。そのことばを探しながら、なんとももどかしく、助手席に身を沈めているのであった。

 

(石川町立石川中学校教諭)

 

 

 


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