教育福島0017号(1976年(S51)12月)-027page

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教育随想

 

街の中で

鈴木 圭介

出かけ、雑踏を避けるため家具店にブラリと入った時のことである。うしろから

 

会津まつりの白虎行列を見物に出かけ、雑踏を避けるため家具店にブラリと入った時のことである。うしろから

「先生。」と呼びかけられたので振り返ると、続けざまに「覚えていますか。」とにこにこしている。数年前の会女の卒業生らしいが名前を思い出せないまま「やあ、覚えているとも…」と答えてしまった。しまったと思ったがもう遅い。「たしか……君は鈴木さんだね。」と言うと、「ええ。」とうなずく。しめたと思って、「鈴木H子さんだね。」とかすかな記憶を頼りに言うと、「覚えていらっしゃったんですかあ…。」と感激している。

彼女は高校一年の時に生物を教えただけの生徒なので、教室でのつきあいから八年ぶりである。家具店内でもあったので、「もう、そろそろ結婚かな。」と言うと、「今年の秋です。」と明るい答えがもどってきた。彼女にとって、人生でもっとも希望に満ちた幸福な時でもあり、自分の幸せをいっしょに喜んでもらいたくて私にまで声をかけたのだろう。しばらく立ち話をして別れたが、名前を思いだせてほっとした気持ちで店をでた。

「クラス担任でも担当学年の生徒でもないのによく覚えているね。」などと妻が言うので、調子にのって、「生徒の名前を覚えずして教育がはじまらないよ」などと大きくでた。しかし、このあとが悪かった。しばらく雑踏を歩いて行くと、すれちがった青年から声をかけられたが、困ったことに顔に全く見覚えがない。こちらが当惑したような顔でもしたのだろう。青年は、「田島高校で一年生の時だけ教わっただけだからなあ…。」と私が彼の名前がわからないのもしかたなし、と言った口振りであった。

このような場合、同級生や担任の名前などの話をしているうちにたいてい相手の名前も思い出すか、最初より相手を知っているようにするのだが、この場合は全く自信がなかった。とうとう、「誰れだったかなあ。」と聞くより方法がなかった。

Y青年は現在函舘営林局に勤務していて久しぶりに休暇をとり会津にもどっているとのことだった。聞けば、一年生で教え、二年になる時に私が転任したとのことであるので、十年ぶりである。

イガグリ頭の高一年生が、りっぱな青年に成長しているのだから、わからなくなるのも当然などと自分に言い聞かせて、Y青年と別れたが、後味が悪くてしかたがなかった。

教師をしていると、このような場合がよくあるのだが、そのたびに私は高校時代に教わった世界史のN先生の教えを思いだす。

「卒業してから、学校を訪ねたり、先生に会って話をする時は必ず自分の名前と卒業年度を名のってから話をはじめなさい。」と教わったことである。私はこの教えを守っているので恩師からは「君のことは知っているよ。」などと言われ、いつも気分よくしている。私はこの教えを教え子に教えることにしている。Y青年が名のっていてくれたら、お互いに後味の悪い思いをせずにすんだものと残念に思った。H子はこの次もまた私に声をかけてくれるだろう。そんな気がする。

卒業生とのつきあいのはじまりは、声をかけたり、名前を覚えていたりすることからはじまるようである。長らく教師生活をしていると地域社会の人たちや卒業生や父兄との結びつきができるが、特に卒業生とのつきあいは楽しいものである。顔だけ知っており、名前も知らぬ人とはつきあいなど生まれないように、学校でも教師が生徒の名前を覚え、よく生徒を知ってはじめて適切な指導や心のふれあいを求めることができるのではあるまいか。ところが、残念なことに、大規模の高校では、接する生徒も多く、教師が生徒の氏名を覚えきれないようである。同じ校門を毎朝くぐりながら、一度も教えない生徒や習わない先生、同級生でありながら顔さえも知らない生徒同志、これでは連帯感はもとより愛校心や友情も育たず、かえって疎外感を持つ生徒がでてもしかたがないと思う。学校規模や教師側の姿勢にも問題はあるが教師が生徒の氏名を覚えられなくなりはじめたら、知識の切り売りをする単なる職人になりさがってしまう時だと自らを戒めている昨今である。

 

(福島県立会津女子高等学校教諭)

 

 

 


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