教育福島0017号(1976年(S51)12月)-028page
教育随想
教師の姿
目黒 正巳
松前重義(東海大総長)氏の『愛情と理性の教育を思う』の一部を要約してのせてみたい。
“眼の中に入れても痛くない孫が、某幼稚園に通っているが、或る雨の日、この雨の中をと、つい車で送り届けることにした。幼稚園に着くと、若い先生がにこやかに、一人一人を出迎えられている。孫を車からおろしている姿を見られた先生が、そばに来られて、お差し支えなかったらおより下さいと言う。おじやますることにして、しばらく待っていると、先生が見えられて、私に話すことは、「私の幼稚園では、車で送り迎えをなさるお子さんはお預りできません。また将来とも交通事故にあわないよう横断する時、車のそばをとおる時には、どういうことに注意をしなさいと機会あるごとに教え、お母さんがたも、幼稚園までの道筋には、区域ごとに、要所ごとに出向いて安全を指導されています。小さい時にこそこうしたことを植えつけるべきだと考えています。」私はこの先生のりっぱな態度と見識に限りない信頼感をもつと同時に決して華やかではない、むしろ地味な幼児教育の世界に精根を打ち込まれている姿に接し、頭の下がる思いであった”と述べられている。私もこれを読んで深い感動をうけた。
教育の仕事は、一生の生き方を育てていく「行」であると言われている。ここにまた意味深いものがある。
OECDの日本教育に対する報告書に、国際的識見の養成と日本人としての自主性の確立、協調心のかん養等について述べてある。日本教育のあり方について大きな示唆を与えている。
人間教師という言葉が聞かれてから久しくなるが、人間教師とはと問われて明確にどう答えるだろうか。かつて皇太子様の英語の教師をなされたヴァイニング夫人が、あなたは皇太子様の教師として、どんなおかたにお育てなさるのですかと問われた時、「私は天皇になられる前に、心の窓を開かれたよい人間となられるよう望みます。」と答えられたと聞いている。教師のみならず、すべての人が広い視野に立って物を見、聞き、考えることがたいせつである。この意味から、視野を広げて、いきいきとした真心をもって、絶えず明るさに向かった人であって欲しいと思う。
更にそこには、一本筋のとおった真理を探究する姿の人でなければならない。一人よがりな、人間としての味がどこか足りない偏向した姿に育つことは、あたかも地球は自分を中心に回転している。−また回転すべきだ−との思いあがりであり、調和と統一のある自主性を備え、主体的判断力の確立した人間とは言われないのである。
次に、自分は多くの人とともに生きているということである。自分を考える時には、常に人の立場を考えて物を言い、事に処するという思いやりの心情がたいせつである。これはボランテア活動へつながることである。とかく現在は個人や社会生活の中に、更に国際間にもこのことが欠けている。この心情の波紋を広げていかなければ真の平和は生まれてこないだろう。とかく自分のことが先に立つ未熟さを見るときに、人生は生がいかけての「修業」であるとつくづく感じさせられる。人と人とのつながりのほかに、人と環境(自然もふくめて)とのかかわりあいを考えなくてはならない。人は自然の子であり、環境から育てられることも多い。そのことは「ふるさと」にもつながるものであり、自然や環境に対する東洋的な、総合して結びあって一つになる日本人の心である。環境をどうつくりあげていくかに、関心と協力が必要である。
以上のことは、社会人として生活していくためにたいせつなことであるが育ちいく者の師となる者にとっては特に心していかなければならないことであろう。
教育振興の一つとして人材を教育界に確保する施策がなされたことは、まことに喜ばしいことである。と同時に人を育てる道に苦労を重ね、その一つ一つを実らせて、己を高め、深め、たしかな自分にして信頼にこたえられる人材になることを願ってやまない。
子供の目は、鮮やかに教師と親の生きざまを見ながら育っていくものである。
逐年、教育の本質を求めて精進される教師の多いことに感謝したい。
(北会津村教育委員会教育長)