教育福島0018号(1977年(S52)01月)-020page

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教育随想

 

山峡からのたよりに思う

 

渡辺 ともみ

 

渡辺 ともみ

 

「先生」と呼ばれる身になってから数年、いまだ先生らしい先生になりきれず、かといって生徒の立場になってうんぬんという見えを切るのは、しょせん思いあがりでしかないのではないかとも思い、いまだに何ものにもなりきれぬ自分、中空を惑う自分を日々かみしめざるをえないこのごろである。

多忙な中にもこうした空ばくたる思いにとらわれていた最近、一通のはがきが自宅に舞い込んだ。みると、同級会の案内である。差出人は幹事のK君である。来る一月某日うんぬんというきまじめな直筆の文面を凝視するうち空々ばくばくたる私の胸は何とも言えぬ思いでいっぱいになった。思い出というには余りにも痛ましすぎて、忘却の彼方に封じ込めてしまった数年前の事どもが、一挙に白日の下にさらされたように思えたのである。

案内状の差出人であるK君のクラスは、数年前、私の新任地であった某分校ではじめて受け持つことになったクラスであった。文字どおりの新まえ教師であった私が赴任したその分校は、阿武隈の山懐に抱かれた寒村の中心部に位置する、生徒数、百名前後のこぢんまりした学校であった。一般的にはさぞかし家庭的で教師と生徒との間柄は和気あいあいであろうと思われるかもしれないが、私の印象ではそんなゆう長なふんい気などさらさらなく、愛憎の両極端にわたって激しく屈折したエネルギーのたぎるような、かつえたる野育ちの子供らの群れ、といったもので、毎日がまさにのるか反るかの戦いのごとき日々であったように思う。

ことに強烈な思い出となっているのは、K君たちが一年のときの秋に行われた生徒会役員改選の際の小さなできごとである。事実上一年生クラスと二年生クラスの一騎打ちであり、双方のクラスが団結しなければ勝てないのは自明の理で、あとは浮動票たる三年生の信頼をどう獲得するかの問題であった。それでも一年勢は一歩ひかえた戦術をとり、確実策をねらったのである。なかでもまさに一騎打ちになったのは副会長のポストで、一年生からはやや神経質だが正義漢の秀才はだ、R君が立つことになった。火花を散らすような舌戦のあとの投票日当日、一年の二名の女子生徒が欠席した。秋あげの手伝いのためである。朝はさほど注目されなかったこの欠席が、実のところたった一票の差でR君が落選するという、その日の夕方にはたいへんなセンセーションを巻き起こしたのであった。二人が欠席しなかったら、ちゃんと登校していたら……クラス全員が怒りとくやし泣きにくれ、R君はしょう然として教室を出ていった。

事はこれだけではおさまらない。結局は連帯意識と団結力の欠如が敗因なのだと慰め、例の二人に対する個人攻撃をきつく戒めた。翌日、登校のバスの中で事情を知った二人の女の子はショックで青ざめ、学校に着いてからも泣きやまず、HRが始まるころにも教室に入れずに廊下に立ちすくんでいるのである。今こそ私の出番、と使命感に燃えながら、私は廊下の片すみでやさしくかつ厳しく諭して一校時始まりの鐘の音とともに二人を教室に送り込んだ。全体を戒め、一部を励まし、無事一日は終わるかに見えた帰りのSHR後、さようならのあいさつのあとにかけよった、例の二人に対するこれは同情派らしい女子数人、柳びを逆立ててつめよるせりふいわく、「先生は私たちに個人攻撃をするなと言っていながら、今朝あの人たちに、私たちに見えないところで攻撃していたじゃないですか。先生はひきょうです。」と。これでもって柳びを逆立て、舌戦を展開したのはこんどは私の方であった。

どのようなてん末で和解に至ったのか、あるいは至らなかったのか、今となっては記憶も薄れたが、事件の数か月後に子供たちと別れねばならなかった私にとって、Kがその後Rを支えながらクラスをリードしていったという風のたよりはひとつの救いとなった。

今というときを迷いつつも燃焼したかつての自分の姿を、あの子供たちの中に読み取れることを期待して、この一月、山峡に向かおうと思っている。

(福島県立梁川高等学校教諭)

 

 

 


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