教育福島0018号(1977年(S52)01月)-021page

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教育随想

 

生徒指導に思う

 

遠藤信男

 

遠藤信男

 

私の家の新築を聞きつけて、はるばる三春から鉄のとびらと格子を運んで取りつけてくれた池上−−。もう十六年前の教え子になる。教職経験十六年。それは私が生徒指導に取り組んだ全部の月日である。私は格子にからんだ名残のバラを眺めながら、私の歩んだ生徒指導の姿を回想する。

生徒指導は生徒理解に始まると言われるが、理解に費やした生徒との多くの生活記録を初めからずっと読みとおしてみて、痛く感じる二つのことがある。第一は、三春時代のことになるが若さという何にも勝る武器をもつ教師こそ、すばらしい生徒指導が可能なのだという実感である。それは先の池上という生徒がはるばる会津まで鉄のとびらを運んでくれたことが物語っている。私にとってのすばらしい生徒指導である(あえてこう言わせていただく)。更に記録をたどる。そろそろ生徒指導の技術が身についてきた、いわばベテランとしての自負も生まれようとする頃の指導である。しかし、生徒との克明な記録の行間から、その「ベテラン」に鋭く反省を求めるものが痛いほどに感じられるのである。すなわち私は生徒にいつのまにか、こういう人間像こそ、まちがいのない生徒指導なのだという確信を持ちはじめてきたらしい。幸男は幸男なりに和子は和子なりに「造ってやろう」としていたのではないか−ということである。人間的なあまりにも人間的な若い時代と、すきのない経験豊かな時代とに、なんら差がないと考えてはいないか。若さの柔軟さに生徒がすばらしい感動をもってついてくるということが失われているだけにかえってマイナスではないかという危ぐの念すら生まれる。

問題はそれだけに(私自身のことだけに)とどまらない。共通理解のことである。生徒指導における協力体制、共通理解に、柔軟性を失った教師がブレーキとなっていることもあるのではないかということである。口はばったいが、いかに共通理解が難しいものであり、協力体制が重要なものであるか時には私はいらだたしさと心の重さとで口もききたくないことすらある。その時私は本気におこっているのである。もちろん、それは私自身の反省としてかえってくることなのであるが、いつになっても、これでいいのか、という疑問がある。

生徒をよく理解することは、同時に生徒にもよく理解され、なつかれる教師であることである。私にとって、ひじょうに慰めとなることはこのことであり、これが第二のことである。どんな指導をしたのか。子供から慕われる指導をした−。これである。多くのことばはいらない。心の通いあう教師と生徒でありたい。

つい最近、善男から電話をもらった。内容は「どこか大工のいい働き口はないですか。」というものである。私は手塩にかけたあの子がいまさらまた職を変えようとしている。思えば私の指導は画餅にしか過ぎなかったか−と血のひく思いにかられたのである。だがしかし、次のことば「今働いているところは、どうも人間があまやかされてダメになりそうです。もっときびしく仕込んでくれるところがほしいのです。」であった。一瞬、私の心臓は高鳴り、暖かい血がどくどくと流れるのを意識した。何が楽しいといって、職業上、教えたことがらが、はっきりした相となって現われることほどうれしいものはない。すばらしい人生とは、美しい思い出の連続であると、誰かが言ったが、私のこれからたどる十数年間も、こうなるとバラ色に思えるのである。

今の時世で好んで苦労を求める若い者が、そうざらにいるとは考えられないのである。

私は若いころから「ならぬことはならぬ」が好きである。そしてこのことは、ずっと今に至る間の一つの背骨として、もちろん生徒の上にも及ぼしてきた。そしてこれにともなう厳しさをもあえてためらわなかった。しかし時世がどうなろうとまちがいのないことと信じている。

今手にしている生徒の記録が、鋭く私に反省を求めていることがらも、やがてこの生徒が成人した時の解答となって私が受け取ることになるであろう。

(磐梯町立磐梯中学校教諭)

 

 

 


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