教育福島0020号(1977年(S52)04月)-030page

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教育随想

「あんた、あの子の何なのさ」

 

戸田満夫

 

戸田満夫

 

最近のマスコミをにぎわしている教育問題の一つに乱塾と受験戦争がとりあげられ、大きな反響をよんでいます。ことに「未熟児」ならぬ、「未塾児」という言葉さえ生み出される始末です。

小学生も高学年ともなれば、女の子が得意顔で「わたし、未塾児よ。」などといいます。つまり、「わたしは学習塾などに通わず学校の授業だけでじゅうぶんです。」という意味なのだそうです。この言葉の背景には、学校での授業がよくわからない、授業についていけない、という声がいっそう塾ブームに拍車をかけているものと思われますが、現代の学校教育に対する不信感と学歴中心の社会構造に対する不安と焦りがより深く大きな渦となって表れていることを見逃すわけにはいきません。

退職された後もお元気で市町村教育委員会連絡協議会の仕事をされているS先生から「あんた、あの子の何なのさ」。という、かいぎゃく的ではありますが教師としての大きな責務に対する問いかけのお手紙をいただき、戸惑いを感ずるとともに、深く考えさせられてしまいました。かいぎゃく的な言葉の意味することが、乱塾と学校教育と教師に直接的な深いつながりがあるように思えるからです。「あんた、あの子の何なのさ。」と問いかけられ、「わたしはあの子の教師です。」と簡単に返答できないのです。教師にはただ単に物を知っている人間としてであることのみならず、真理の証人でもあり、価値の肯定者であることが求められます。さらに本物の教師とは、子供にとって愛と権威の原体験でもあり、単に教え育てるというパワーをもった大人としてだけではなく、人間としての価値を常に自分自身に問いかけることの出来る人だろうと思います。子供たちが教室や校庭で教師とともに過ごす時間は、そのあとに児童の意識の中に獲得された知識や情繰のちんでん物を多分に残していくものとすれば、いまさらながら教師であることの厳しさに身がすくまる思いがします。児童とともに考え、悩み喜び合うことを保護者も認め、自分もそのような存在であることを認識しているわけですが、現実はしだいに教師がそのような形で機能しえなくなってきているところに深刻な問題があります。

 

算数の授業でともに考える

 

算数の授業でともに考える

 

確かに学校の教育課程を編成し、総合し、活用しその中で児童との直接的にかかわり合っていますが、子供にとって教師の真実の姿は「見えない」ようにさえ思えます。物理的、空間的には存在しますが、精神的には不在であるような気がしてならないのです。急激に変貌する社会の中で、確たる見通しも持ち得ないまま、適応力においても若い世代に遅れる教師が、職業人として、社会人として、人生の先輩として、生き方のリーダーたり得るのだろうかと思ったり、子供にとって、精神的不在の教師が愛と権威の感覚についての原体験たり得るのだろうかと自分自身をかえり見てなさけなくなる時が多いのです。このような不安定な態度は結果的に自律性志向の稀薄な、「甘え人間」を作り出すことになるのでしょうが、いまのところ、いい年をして、まだ教師であることの本来的な姿がどのようなものであるのか、漠然としていて脳裏に描くことができないため、S先生から「あんた、あの子の何なのさ。」というかいぎゃく的なしかも皮肉たっぷりのおしかりをいただくことになったわけです。現代社会における教師のあり方によって、子供の発達過程に大きなインパクトを与え人間形成を大きくゆがめることを考えるとき教師としての道の厳しさ、険しさにいまになって驚いています。

(福島市立庭坂小学校教頭)

 

 

 


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