教育福島0020号(1977年(S52)04月)-032page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

教育随想

しつけ今昔

 

山本ナカ

 

山本ナカ

 

今の子供は、小学一年生に入学する時、立派な机をはじめ学用品その他、何不足なくそろえてもらって、きれいに着飾った母親に連れられて入学式にのぞんでいる。

昔の子供は学習机など考えられないことで、カバンさえなくてふろしきに包んでくる子もあった。そして、親は「先生さま何もかもおまかせします。」といっさいをおまかせして帰ってしまう。当時の生活は、電化されたものなど何一つなく手間ひまのかかる生活であり、そのうえ、子だくさんの家庭が多かったから、子供に眼をかけてやるゆとりなどなかったのである。子供は大体小学校にはいると朝と夕に家の仕事や家事の手伝いを分担させられて、必ずそれをやらなければならない厳しさがあった。学年が進むに従って分担量も増してくる。ふろ水汲み、ふろたき、子守り、庭はき、ぞうきんかけなどを分担し、みんなが働いて家族の生活は成り立っていたのである。農繁期には小さい弟妹を背負って学校にくる子もあって、弟が泣くといっしょになって泣いている子もいて胸をしめつけられるような思いをしたこともあった。しかし、弟妹のめんどうをよく見て弟妹に弁当を食べさせてから自分が食べる姿を見てこの子はきっと思いやりのある人に成長するだろう、これこそ生きた大事な勉強ではないかと温かく見守ったこともあった。大部分の子は分担の仕事さえすれば、あとは戸外でがき大将を中心に思う存分遊べたし、遊ぶ場所もじゅうぶんにあったのである。このように素朴な子供たちは礼儀作法や言葉づかい、衛生的な習慣などこそ身につくことは少なかったけれども、健康的でたくましく生きる力や、家族がいたわり合う心、仲間との連帯感等人間として、また、社会の一員として大事な心情は生活をとおして身についていたようであった。ただ生活の基本的な行動のひとつひとつをしつけていくことは、いっさいまかされた先生がやらなければならなかった。本来しつけといつものは毎日毎日の生活の中で、しつけていくべきものであるから、家庭生活の中で行う方がききめが大きいし、親が指導すべきことが多いのである。学校は学校本来の仕事があり、しつけ面では集団の中でのしつけが主となるのであろうが、いっさいをまかされた先生方は母親と教師の両方の役割を果たさねばならなかった。

ところで、今はどうであろうか。極めて便利な生活のうえに、子供の数も少ないので、子供に仕事を分担させるどころか子供に眼が届き過ぎているのである。服を着せてもらって、持ち物をそろえてもらって学校に行くのである。物は豊富に与えられて物のたいせつさも知らない。大方の親はいっしょうけんめい子供の依頼心やわがままを育てているようなものである。しつけの基調となる自律心など育つはずがない。このようなことに対する親の反省がない限り昔の子供より今の子供の方が幸せとは言えないと思う。また、厳しさを知らないこのような子を教育する今の先生の方が昔の先生よりむしろ骨が折れることであろう。しかし、学校という集団の規律をとおしてのしつけ、授業におけるしつけ、給食時のしつけ、遊びをとおしてのしつけなどは今後ますます重要性を増してくることであろう。そして、しつけはこの部分は学校、この部分は家庭などときつぱり分けられるものではないので、現状に即して行われねばならないことは当然である。

子供がやがて社会の一員として、他人に迷惑をかけない自制心を持ち、社会の人々とともに生きていく連帯の心を持った人間に育てることが子供の幸せであることを考え、学校も家庭もしつけにき然たる態度でのぞみ、しつけの確立をはかりたいものである。

(二本松市教育委員会教育委員長)

 

正しい歩きかたをしっかり身につける

 

正しい歩きかたをしっかり身につける

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。