教育福島0020号(1977年(S52)04月)-034page
教育随想
親心・教師心
白坂 昇
四年前のことになる。通称白一坂の急こう配の坂道の途中に近代建築のすばらしい校舎がたっていた。これが私が赴任してきた白河第一小学校であった。白河の市街が一望に見おろすことのできる校舎の玄関にたってみつめた白河のまち、かつて子供たちと、日曜日ごとに水質調査にあるいた阿武隈川の姿、涙のでるほどなつかしかった。そして、今度は小学校での指導に新卒のつもりでたちむかおうと決意していたあのときの気持を今も忘れてはいない。
何日かたったある日、全校活動があった。その日は第一体操と持久走の日であった。いっせいに走り出した千余の子供たちの渦巻。あの広い校庭に教師もいっしょに走ってつくる渦巻に胸をしめつけられるような感動を覚えた。一体この感動は何なのであろうか。
本校では「学習意欲を育てる授業の組織」をテーマに十年間研究を推進してきた。その中で確かめたことは、「学習意欲を育てる授業の組織」は学級のふんい気、校風、教師と子供の心のふれ合い。学校行事の運営といった授業以外の学校生活全領域と深くかかわっていることであった。この研究の過程でわれわれは、常に自分に問いかけてきた。「子供の意欲を育てる奥底にあるものは何であろうか…、それは、われわれ教師が、一人一人の子供をじっくりみつめ、その子のよさに気づき、子供の心にふれ、子供の変化を目ざとくみつけ、その変容に感動する教師の態度にある。その感動が子供の意欲を育てる根本であり、それがあらゆる指導技術の前にある…。」と。更に、子供の能力を最大限に伸ばすことが指導であるならば、われわれの教材研究にも、それに相応した、くふうと努力が必要である。それは、「水源池の高さまで水道のじゃ口の水はとどく。」という落差の問題と同じであることを確認した。これは実践をとおして知り得た簡明にして、きびしい事実であった。しかし、それが個々の教師の教育に対する考えの根底にあり、組織され、日常の行動にあらわれたときに、見るものに一種の感動を与えるのかもしれない。
子供たちは、自分に目標を持ってすこしはやめに登校し校庭を毎日走っている。これは四季を通じて見られる姿である。あつい夏の朝も、寒い冬の雪の中も走りつづけている。この苦しさに耐えて走りつづけることから、子供たたちが得ている精神面の成長には非常に大きいものがある。私も子供たちといっしょに走るように努めてきた。
全校持久走の日
三月になって六年生から「思い出を語る会」の招待状がとどいた。これは子供たちが手わけして全教師にだすものである。「先生に授業中何度も注意されてごめんなさい。なおそうとしたがなかなかなおせなかったこと、ごめんなさい。しかし、授業は楽しく多くを学びました。全校活動の持久走のとき、ふとったからだでぼくたちといつしょに走ってくださった姿に教えられるものがありました。からだをだいじにしてください。ありがとうございました。」ノートの字がいつも乱雑であったこの子の手紙は一字一字たんねんに心をこめてかいていた。思わぬところで子供に感心されるものだと思ったことであった。
本校の校庭には日本の小学校ではただ一つという、山上憶良の万葉歌碑が今年の二月にたった。
「し露が年も、くがねもたま茂 なにせむニ 万佐連る多から 子に志か免や裳」の親心の歌である。
この碑の表面には、本校校長深谷健先生の次の歌がきざまれている。
あ子のこと思い思いていくたびか、この坂道をかよいつるかな
まさに親心とは、かく尊くせつないもの、そして教師また、この子らにかけたる親の祈りをばむだにはすまじひたむきに生く
この親心、教師心を大事に今後の実践にはげみたいと考えている。
(白河市立白河第一小学校教諭)