教育福島0020号(1977年(S52)04月)-035page

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教育随想

生徒とともに

 

廣橋良子

 

廣橋良子

 

「先生、合格した!」とかけこんできたH君。合格第一号。県立高校合格発表の日のことである。今までにみせたことのない自信に満ちた顔がつぎつぎとかけこんでくる。三年の各教室は喜びにわいている。学級の全員がそろったら、いよいよ彼らと別れなければならない。

教室へ入っていくと、T君がまだ来ていないという。ふと、窓ごしに彼の姿を見つけた。「あの顔は合格した顔だ。」とだれかが叫んだ。彼が教室に入るや拍手がおこった。T君は欠席がちの生徒であったのだ。「よかったな。今度はがんばれよ。」だれいうとはなしに彼を励ましている。なんともいえない学級の温かいふんい気である。

彼らが去ったあと静かに顧みると、だれひとりとして私が期待するようなことばを残していった者がいない。彼らの心のうちは何となく伝わってくるのだが、担任教師としてはなんともむなしいような思いがする。しかし、それでいいのだと思った。強い自信を持って一本立ちになって人間として力いっぱい生きていけるだろうから。

二年前、彼らの担任となった時、私は「学級集団というのは『ウサギとカメ』のような関係ではいけないのだ。寝ているウサギをおこして、いつも五分五分の競争をする者同士の集まりであってほしい。」と希望を述べた。そうはいっても私には具体策がなかった。理論も形式もなく、ただ体当たりで、一瞬一瞬の出会いに実意を尽くすことを心がけてきた。短学活に存外無責任なことを話したり、昼食時に肉声の交換をしたりしてきた。それでも思いがけないときに自分に共鳴してくれる生徒がいる。

彼らのうちだれかが自分で買った問題集を解き終えると、つぎつぎに級友の間を回し、問題点をみつけあったり議論したり調べたり、みんなで励ましあい競いあっていく。また、彼らの間で不用意なことばで学級のふんい気をこわすようなことがあると、短学活は一時間にも及び戒めあう。

班長会議風景

 

班長会議風景

 

「結果より過程がたいせつ」などというと、校内大会には、とことん準備をして臨む。彼らも体当たりで努力し自己をみがいてきた。その都度その都度の感動が残っている。そこに私の生きがいがあったのだとも思う。「ぬかるみにはまった車を懸命に引くが、車は動こうともしない。なかなかぬけない。努力しているその姿に力を貸してやる。車はぬかるみから抜けて動き出す。」ちょっとした力添えで彼らは努力し自信をもち、それが彼らの力となったことを知った。その力をもとに彼らは自分の人生を生きぬいていくことだろう。それでいいのだ。生徒があって私の存在のしるしがあるのだ。それで私の努力は全部むくいられたのだと思う。

今、一つのサイクルが終わった。次回というのはいろいろな意味でむずかしくなる。しかし、基本的には同じサイクルで動いていく。その舞台の中に、実は「一回きり」の生の営みがあるのだけれど、その「一回きり」の新鮮さをどのようにとらえるかが私にとって課題になるだろう。あの生徒たちの活動の源を確かめながら、生徒とともに歩みつづけた力によって、生徒によってみがかれたいくらかの力で今年度担任した二年四組との関係も作るようにしていきたい。

(会津若松市立第三中学校教諭)

 

 

 


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