教育福島0021号(1977年(S52)06月)-021page
ある。
中学校で学習する「一意対応」は有限集合間の対応である。高校ではこのことを踏まえた上で、簡単な関数について、それらのもつ性質をよく学習し平面から平面への変換等、具体的内容を、直観的に学んで、ある程度の準備ができたところで、無限集合から無限集合への一意対応に移行し、そこで「写像」の用語・記号を出していろいろな教材を統一的にあつかうしかたを身につけさせてゆくのがよいと考えている。
(福島県立福島高等学校 上川洋行)
音 楽
日本音楽の指導について
二十世紀の芸術音楽を概観すると、多種多様な音楽の発展がみられるが、それらの中には自国に伝承されたものが基調となったものが多い。特に東欧のハンガリーの作曲家バルトークとコダーイは、音楽の基礎を古くからの土着の民謡にもとめ、それらを知的探究することによって芸術音楽の可能性を切り開いていった。
本県にも民俗音楽の美しさに着目し長い年月をかけて採譜し研究し、それらを実際の授業の中で教材として取り扱い成果をあげている教師がある。その意見と実践例を次に紹介したい。
日本音楽指導の一事例
福島県立安達高等学校
懸田弘訓
義務教育に伝統音楽の共通教材が示され、高校においては音楽文化の創造が伝統の上に展開されるものであるという見地に立って、指導体系が確立されるべきである。日本人でありながら主として洋楽を中心に育ってきた私ども音楽教師は、今更ながら自国の音楽の指導に戸惑い悩み、試行錯誤を繰り返しているのが偽らない現状である。これは教員養成機関の講座の内容にも問題はあるが、もはやその責任の所在を論じる余裕はないほど現場は差し迫っている。
ここに伝統音楽を主とした日本音楽の導入の一例と、指導内容や資料の収集についての実践例の一部を示したい。限られた紙面で意はつくせないが、先学諸氏の御指導と御批判をいただければ幸いである。
○日本音楽の導入について
教育は単に「教える」だけでなく、「育てる」という一面を持つが、ことに音楽教育ではこのことを忘れてはならない。
日本人と外国人の最も異なる点は、言葉における感受性がちがうということである。日本語ほど語いが豊富であり、また感受性の豊かな言葉は他に類があるだろうか。また日本語には独得のイントネーションがあり、アクセント、リズムがある。「歌」は「言葉」の自然な発露であって、日本語に自然に忠実にふし付けされたものが、日本人の歌である。すなわち、日本の歌は日本語の語感そのものといえよう。最も近代化された東京の子供たちの遊びの中にさえ、伝統的なわらべ歌は力強く生きているばかりか、子供の音楽的創造性のありかたをほとんど独占しているとさえいわれている。
毎日日本語を話している子供たちに洋楽の音楽語法で創作させることは、考え方によっては非常に矛盾していることといえるだろう。
音楽教育において基礎力をつけるとか、一人立ちのできる音楽教育とか、創造性を養う指導法などと機会あるごとに力説されながらも、小学生も高校生も音楽に対する力に差がないとまで極論されるのは、前述したような点に大きな理由があるように思えてならない。私は人間形成をめざす教育の役目として、文化遺産の継承と伝承を果たすために日本音楽を積極的に授業に取り入れるとともに、音楽文化の創造が伝承の上にあることをふまえて、身近なわらべ歌を教材に用い、生徒がこの種の音楽に興味を示すよう配慮している。
羽根つき歌
羽根つき歌(楽譜1)
この歌を一小節ずらした輪唱の形として歌えばとても楽しい。私は歌唱はもちろんであるが、一年次においてアルトリコーダーの導入教材としている。先行したグループは、最後の一小節を二回繰り返して同時に終わってもいい。また終止に和音の響きがほしい場合は次の(楽譜2)ようにすると、いっそう充実した終止感が味わえる。
このようなくふうによって、小学校中学校はもとより、高校でもじゅうぶん教材となる。類歌は心がければいくつも採集できるし、民謡に応用するとさらに楽しくなる。詳細については、『文化財読本指導の手引き』(県教育委員会 一九七〇)を参照していただきたい。
一日も早く、自分たちの身近な足元に存在する音楽から第一歩を踏み出すことが、音楽教育の常識とならねばならないと思う。このような観点にたって基礎固めをしてこそ、民謡も高度な伝統音楽も理解し体得できるようにな