教育福島0021号(1977年(S52)06月)-023page

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人形の系統をひく一人遣いが今なお継承されていて、導入にはよい教材となる。

三味線音楽

(1)三味線の渡来と庶民への浸透

(2)三味線音楽の種類(分類)

(3)三味線の種類と特色

(教材)

地唄「雪」

長唄「越後獅子(しし)」

ビデオによって舞踊もみせる。

「雪」は地唄の代表作で、しみじみとした味わいの深い曲である。また雪の合(あ)いの手は、他に多く用いられている。「越後獅子」は変化に富んだ巧みな構成で、各種の要素をもっている名曲である。

 

高倉人形 (郡山市日和田町)

 

高倉人形 (郡山市日和田町)

 

歌舞伎 (合図田島町)

 

歌舞伎 (合図田島町)

 

箏(そう)曲と尺八

(1)箏と尺八の流れ

(2)箏と尺八の種類と特色

(教材)

箏曲「六段」「千鳥の曲」。尺八「鶴の巣籠(すごもり)」

「六段」は親しみ易く、また上品で優雅な旋律の名曲。「千鳥の曲」は変化に富んだ手事物形式の傑作である。「鶴の巣籠」は、鶴の親子の愛情を表現した古典本曲の名曲。

5、近 代

新日本音楽

宮城道雄の人と芸術

(教材)

「秋の調べ」

歌章は平易で、カノン風の名曲である。

 

現代日本の音楽

現代日本を代表する作曲家の作品。

このような日本音楽、ことに古典は百見して現代のわれわれの生活からは遊離してしまったようにも思えるが、実際には民俗芸能と交流するなどして今に生きており、その命は永く力強い。鎮守の祭礼や年中行事などに演じられる民俗芸能にもっと関心を持ち、それを足がかりとして指導することもたいせつではなかろうか。

また、伝統音楽は総合芸術で、ことに舞踊との結びつきが強い。それだけに録音だけでは不じゅうぶんであり、ビデオの活用を望みたい。一般にテレビでのこのような番組の放映は深夜のことが多く、自宅に機器の備えがないと不便である。高価な物ではあるが、生徒に対する責務の重さを認識すれば学校予算の制約の中でも努めて整備していきたいものである。

感動のない芸術は意味がない。また教師が感動せずに生徒に感動を与えることは不可能である。そのためにわれわれは初心にかえり、いっそうの努力を重ねなければならないと思う。私は自作のテキストを作成し、それを授業で使い、二年次には半年を日本音楽の指導にあてているが、初めはけげんな顔の生徒たちも、最後には納得し、学んだことを心から喜んでくれるように思える。素直で感受性の豊かな生徒にめぐまれているためもあろうが、私は教師の熱意は必ず生徒に伝わるものと確信している。

 

会津へ帰省した時にひょっこり懸田先生にお会いした。ある村の祭礼で古くから演じられている、祭りばやしを録音に来たということであった。山車(だし)にのって終日町を歩きまわり、貴重な写真もとれたと熱っぽく話されたことを思い出す。そして、福島県にとどまらず、東北各地をこのようにして歩いているので、日曜も何もないのですという言葉に、先生のこの道にかける執念をかいまみることができた。

また、先生のお宅の応接間には、無造作に飾られた民具・がん具の数々。そのほとんどは録画され録音されてあった。それらはすべて自作のものであるのに感嘆した。

高教研の音楽部会の研究大会は、昨年安達高校を会場にして開催された。その際懸田先生が研究授業をされた。二年次のもので、内容は文楽人形浄瑠璃「艶容女舞衣」酒屋の段であったがその指導過程の中で、本県の会津のある地方に伝わる人形芝居をビデオで導入し、生徒に身近なものとしてうけとらせるとともに、授業の中では、細かい演出法までふれた高度な、また内容のすばらしいものであった。しかし内容とともに一番心をうたれたのは、教師と生徒の人間的なあたかたい心のふれあいであった。

ときどきわが校の生徒たちは授業にのってこない。わが校の生徒たちはだめだという言葉を聞く。たしかに多様な生徒が入学している昨今では、指導にも困難が多かろうと思う。しかし指導する側にも考えてみる余地があるのではないだろうか。音楽は「心の芸術」であるという人がある。美しいものを美しいものとして感じとる心は、すべての人間が等しく持っているはずである。われわれ教師はいろいろな場を通じて、生徒とともに「感動の世界」を創造する努力をかたむけてゆきたいものである。幸いにも、県内ではいろいろな分野で活動している教師が多く、その研さんには常日ごろから敬服しているところであるが、その道を極めるための道程は遠い。お互い手を取り合い交流を深めながら、着実に歩を進めていきたい。

 

 

 


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