教育福島0021号(1977年(S52)06月)-024page

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教育随想

 

T子と私

 

郡司ケサ子

 

たエネルギーが、巣立った園児の心に残っていてくれたらと考え念じています。

 

私がはじめて幼児教育の実践に携わったのは、昭和四十二年四月、十年前のことでした。その後教師生活十年、(私立幼稚園へ五年、公立幼稚園へ五年)その間多種多様な園児と先生がたに接し学ぶ事もおおいにありました。園児たちが実社会へ巣立った姿はいまだ見いだせませんが、私たちの幼児教育がなんらかの形で生きるかてになってほしい。私が費やしたエネルギーが、巣立った園児の心に残っていてくれたらと考え念じています。

私は県外のあるマンモス団地の中にある幼稚園が最初の勤務地でした。慣れない生活ではありましたが、園児たちの大きな期待を受け、誠心誠意努力いたしました。当時主任先生に導いていただき何もかもが目新しい事ばかりでした。私のクラスは四歳児、年少組、三十六名に助手の先生がおりました。園児たちは子供らしく活発でのびのびとしておりました。

その中に、女児T子がおりました。T子はいつもにこにことほほえみをもった子でしたが、言語、神経系の障害を持っている子でした。園長先生の計らいでT子は入園許可されたわけですが、保育中はいつもお客様のようにしており、園児といっしょに行動させようとすると神経系が異常になるのか、立つことが困難になってしまうのでした。でも、ここで手をさしのべることは自立心の芽ばえを妨げる結果となるので、私はともに見守り励ますだけでした。このくり返しが私とT子との根くらべでした。母親も幾度となく園を訪れ協力してくれました。そんなある晴れわたった朝のこと、全園児による体操がはじまりいつものようにT子は傍観していましたが、かけっこになると水を得た魚のようにみんなといっしょに園庭を走り回りました。しかしT子は、体力がなかったので短い距離しか走れませんでした。このあと園児たちは固定遊具指導に移り、ジャングルジムを順番に登り降りしていましたが、T子だけはジャングルジムに登ろうとしないで棒を握ることを拒み、体を硬直させ泣きじゃくるだけでした。そこで私はT子の体を支え、硬直状態を解きほぐすようにゆっくりジャングルジムをいっしょに登ってみました。その日以来私はT子の硬直状態を取り除くべくT子の可能性を信じ、朝のわずかな時間をみつけていっしょにジャングルジム登りを続ける努力をしてみました。その結果、二週間後の体操の時間、T子は一人でジャングルジムにのぼり「郡司先生」と一言いってにっこりほほえんでくれました。あの顔がいまでも私の脳裏に深くやきついているのです。それからのT子は、自信に満ち、折りにつけ興味を示しながら参加することへの喜びがつかめたようでした。他の園児と同じように、私にもできるんだという芽ばえが生まれてきたようでした。クラスの園児に励まされ人間的な触れ合いも生まれてきました。

 

ジャングルジムに登ったT子

 

ジャングルジムに登ったT子

 

私は同じ子供の仲間意識を育ててあげ、広い視野の中で、のびのび生きる人間性を見いだしてあげたいとつねづね考えているわけです。世界はいろいろな方向へと発展しつつありますが、幼児教育に関してはまだまだ未知なものが多分にあると思います。教育の目的は人間形成につきることだと考えます。経験十年目を土台として幼児期に課せられた課題を、社会への交わりの一段階として、新たな気持で幼児教育に取り組んでみたいと考えております。現代の幼児たちにアタックしながら、生きた教育に少しでも近づくべき努力を積み重ねてゆきたいと考えております。

(滝根町立滝根幼稚園教諭)

 

 

 


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