教育福島0021号(1977年(S52)06月)-025page

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教育随想

 

五重障害児の発達を願って

 

安藤哲夫

 

。学籍がないために、他児の学習の前後、ほんのわずかな時間を指導に当てた。

 

昭和四十九年四月、本校隣接の国立病院に入院中の重症心身障害児に対し教育を開始した。私は授業のない日もこの子らの顔が見たくて、毎日病院に足を運んだ。学習室に行く途中、いつ見ても全く動くことなく死んだようにベットの上でじっとしている子が目についた。いつも同じ姿で寝ているので不思議に思いそばに寄ってよく見ると、全盲の子であった。自分からは全く動くこともなく、本能的に食べて排せつし、ただ生きているだけというような話を聞いた。両眼球形成不全、高度難聴、発語なし、歩行不能、知的障害と一人で五重もの障害をかかえて生きる九歳の男子だが、何とか外界の刺激に対し反応するようにならないものかと考えた。就学猶予をしていたが、指導する決心をした。学籍がないために、他児の学習の前後、ほんのわずかな時間を指導に当てた。

九歳とはとても思えないやせて小さい体。生まれたばかりの赤ちゃんのようにやわらかな手。私はその手を握って自分のほほに当て、私の手をK君のほほに当てて、耳もとで「K君、安藤先生だよ。」と声をかけた。うす暗い病室のベットの片隅に、動くことのない一つの物が置かれているような印象を与えるK君だったが、同じ動作と同じことばで毎日必ず接した。しかし指導して二か月、何の反応もなかった。

だがあきらめるなどとは全く考えず、K君に接するのが日課になってしまった。昭和四十九年六月五日、私はベットの上に身をのり出し、顔と顔がふれんばかりに近づけ、祈るような気持ちで「K君、安藤先生だよ。」と五〜六回声をかけた。するとK君が笑った。かすかな動きも声もなく無表情で、生きているとも思えないようなK君が笑った。目は閉じ声もないが、この時の笑顔のすばらしさ、かわいらしさは何にもたとえようがない「天使のような笑顔」とでもいったらわかってもらえるだろうか。これが私に対するはじめての反応であった。あの日の笑顔は今も心に焼きついて離れない。歩みは遅々としているが、指導を開始して六か月いつものように話しかけると笑う以外に声のする方にいくらか顔を向ける、まぶたを動かす、口唇を動かす、口からあわを出す等の反応を示すようになった。また、私の歩く足音にも、体に手を触れずにそばで名まえを呼ぶだけでも反応した。次は手の運動の自発を試みた。ベットの上に上半身を起こし「K君、ポンポンしましょう」と声をかけながらK君の手を握って手ばたきをさせた。いつも心からの愛を持ち、その時、その時を真心で接し、六か月間指導したが手の運動の自発は全くみられなった。やはりだめなのかという不安がつのった。

昭和五十一年四月、小学部一年に入学。どんな子にも発達があると信じ、新たな気持ちで指導を開始した。K君の反応からいくらか耳が聞こえるのではないかと思い音の出るものを使った。まず両手に鈴を持たせようとしたが全く持つ気はない。しかたなく介助して鈴を持たせ手ばたきをさせた。ところが一か月程で鈴を持つようになり、二か月ぐらいから手ばたきしている腕に時々力が入るのが感じられた。しかし、指導を開始して一年二か月だが自分からは手ひとつ動かさない。これから先どうしたらよいのか行きづまりを感じた。そんな時には同僚と話し合い励まし合って指導を続けた。

昭和五十一年六月十二日、学習の終わりを知らせるために「K君」と名まえを呼び肩に手をかけた。すると鈴を持っていた手を三〜四回たたいた。偶然かもしれないが、この一瞬あきらめかけていた気持ちが吹っ飛び「みんな早く見て」と大声をあげてしまった。確めてみたくなりもう一度声をかけた。息づまる思いであったが、前よりも強くたたいた。半信半疑で指導してきたが自分のやってきたことが妥当であったのではないかと感動した。三年経った現在、ちょっと手をかせば、ねがえり、四つばい保持、ひざ立ち、起立、三輪車に乗っている、ドラムをたたく等すばらしい発達をみせてくれた。今までは生かされていたのだが今は違う。生き生きとしたものがはっきり伝わってくる。この姿からどんな子にも成長があり発達があるのではないか。そして、教育が必要なのではないかを学んだ。

(福島県立須賀川養護学校教諭)

 

 

 


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