教育福島0022号(1977年(S52)07月)-019page

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(3) 体育の生活化をめざす

 

◇ 時間の確保と実践

体育の生活化とは、児童生徒にとって、学校から家庭までの暮らしにおける運動の遊び化、グループ化、体育・スポーツの日常化という事象を、児童生徒の生活、健康という立場から、学校としてどのように推進していくかということであろう。

そこで、多くの学校では、業間運動という形で児童生徒の運動時間を確保しているようである。ここで、先進校の実践が教える業間運動実施上の着眼点について触れてみたい。

 

○ 業間運動といえば、体操や行進など、全校いっせいの集団訓練的な活動を採用する学校が多いが、多くは失敗している。児童生徒がきらい、教師も長続きせず、自由な遊戯やスポーツに変容することによって、ようやく安定していったということ。

 

○ 教師が卒先してリードする教師中心のタイプよりは、児童生徒の自主的な活動方式の方が長続きしているということ。-この二点である。

 

また、ある小学校では、業間遊びが一年生から六年生までの、縦のグループで、自主的に行われるという方式によって安定したという。また、ある中学校では、学年内の生徒の自主的なグループ活動に変えてから、継続が保たれるようになったという。

このように、自由で自主的な姿が児童生徒の求める業間運動といえるようである。では、方法的にはじめからそうすることがよいかといえば、そうともいえない。先進校の教訓は、業間運動を始めようとするならば、まず全教師が参加し、全校あげての教師中心的な方式から入るのがよい。そういう段階を経て、逐次自由で自主的な方式に変容させていく。そういうくふうが必要だということである。だから安定した後にも、ときおりは教師中心の方式を挿入してみる。そういう変化のある方式がよいということである。

次に、体育行事であるが、これによって運動量を増すというだけでなく、体育・スポーツに対する関心を高め、楽しさを増すことができるようなものが適当であろう。

 

例えば、毎月一回クラス対抗の全員出場リレー大会を開催するとか、冬には、毎月全校なわとび審査会をするとか、児童生徒が、だれでも楽しく参加できる体育行事をくふうして実施することは、体育の生活化に大きな効果をもたらすものである。そこで、児童生徒にとって、魅力的な体育行事とはどういうものであるかということを、教師一人一人が、真剣に考えていくことが、今後ますます要求されてくるであろう。

 

社会体育のめざす体力つくり

 

一、現代生活と社会体育

 

現代生活は、高度な経済成長と技術革新によって、生活を充実させるための物質的諸条件は整理されてきたが、反面人間疎外の条件も数多く生みだされてきている。

機械文明や交通輸送、耐久消費材の普及・発達による生活によって、身体活動の不足、仕事の分業化・自動化による自己実現の喪失、よそよそしい人間関係による、人間疎外などがそれである。その結果、心臓病や高血圧、糖尿病などの運動不足病や、はてはノイローゼ、自殺などにみられる社会的不適応者の多発などが、社会問題として大きくクローズアップされつつある。

今日の社会問題は「健康」と「公害」と「生きがい」だといわれるが、これらの社会問題に対処するため、最も効果的な生活内容として、社会体育としてのスポーツを新しく見直そうとする機運にある。社会体育の手段としてのスポーツの持つその社会的機能が、やっと人々に理解されはじめたことによるものである。

 

二、余暇と社会体育としてのスポーツ

 

労働時間の短縮は、先進諸国において共通にみられる傾向である。この結果として、余暇が増大している。このことは、人間が自由に使える、時間がふえるということを意味する。生理的再生産に必要とされている時間はほぼ一定であるから、労働時間の短縮は自由時間の拡大ということになる。

かつては余暇をほとんどもっていなかった人間が、今日ではほぼ労働時間に見合う程度の余暇をもっている。かつての余暇は労働をクリエートする以上のものではなかったが、今日では、それは労働に対して独自な意味をもつようになっている。ところが、教育のほとんどが職業についてのものであり余暇をどうすごすかの教育が行われていなかったわけである。余暇が休息であれば、それについての特別な教育は不必要である。ところが現状ではすでに、そうはいかなくなってきている。

社会主義国家では、余暇をどうするかについて国家的方針が打ち出されている。そこで重視されているのはスポーツである。これに対して、わが国では余暇を即時的・感覚的に楽しもうとする傾向だけが頭をもたげてきている。しかも、レジャー産業という形で、営利目的で余暇が処理されようとしている。このような状況では仕事についての配慮に匹敵する重みが余暇にも向けられなくてはならない。

産業が高度化するにつれて、労働は知的になり、体力を行使しないでも、すまされるようになる。仕事で活用されない体力は、余暇で活用しなくてならな

 

 

 


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