教育福島0022号(1977年(S52)07月)-026page

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教育随想

 

心のふれあい

斎藤喜蔵

 

果積極性も増し、人間的つながりも深まり、クラスのふんい気も明るくなった。

 

九月中旬の校内体育大会のこと、自分たちで作ったじまんのクラス旗を先頭に入場行進が始まる。胸を張りひざを伸ばして力強く歩く。堂々たる行進だ。半年前に桜吹雪の校庭で歓迎ダンスパーティーをしてもらった一年生も活気にあふれている。もうすっかり高校生活も板について来た感じだ。何年も同じように繰り返される行事だが、年ごとに新鮮さを増し、楽しい思い出として強く印象に残っている。球技大会のあの爆発的な若さのほとばしり、体育大会の力と応援の歓声など、教室ではみられない生徒のたのもしい姿は感動すら覚える。本校では「意義ある高校生活」をテーマに生徒指導の研究を進めてきた。部分的・観念的には生徒の実態をつかんでいるつもりだが、実態を生徒、教師、家庭など違った角度から見ると、断面が明瞭になってきた。先生に対する信頼度の低さ、学習意欲の低調さ、勉強不足など特に目につき教師と生徒の人間的なふれあいがそれらの解決の基本であることが痛感された。授業はたんに教師がわかっていることをそのまま教えればすむというものではない。授業は教師という人間の力がいつも投入されて行われる地道な気長な仕事である。そしてこれだけは引き出してやりたい。これだけは教えたいと全力を傾けて悩む。教育相談は指導部の係や学級担任だけに任せるだけでなく、授業担当者の学習相談もたいせつだと思う。それは、進路希望、クラブ、得意不得意科目、努力状況の考察、趣味特技、学習の内容や反省等あらゆる生徒の実態を考察し共通理解を深め、悩みや問題点を明らかにして充実した高校生活を送らせるという指導をしてきた。私の担当している数学は特に悩みが多い。学習に対する消極的な態度が多いのも大きな原因であったので、学習相談を積み重ねてきた結果積極性も増し、人間的つながりも深まり、クラスのふんい気も明るくなった。

教師は概念的なことばだけでものを言っていることが多いといわれる。いつでもことばだけはあるが、生きて動いているものに従って具体的にそのものをみたり、そのものに心を動かされたり、そのもので解釈したり、考えたりすることは、一般的に教師にはできない。頭の中にあるもので、頭の中にあることだけでものを見、言ってもこれは思考ではない。このことが生徒にも知らず知らず影響を与えている。必修クラブに俳句クラブがあり、その係をしているが、毎年十名以下である。もちろん作るのは初めてである。作り方をあまりやかましく言わず自由に作らせてみると、二学期にはなんとか作れるようになった。感想をみると「俳句クラブに入って俳句に接し、私の自然風物に対する見方が変わってきたと思います。極端に言うと毎日見なれ、それまでなんという感じも持たなかった風景にも、なにか新鮮なかたちが感じられます。ほんとうに不思議です。人間は気持ちしだいでいろいろ変化できるのでしょうか。」また「四季の情趣に目をやり、耳をかし、自然の変化に心ときめくようになれたことはとても幸福です。」更に「四季の変化がよくわかり、表現する「ことば」がこんなに意味をもち、むずかしいものなのかと改めて認識しました。」と生徒は教科では得られない意欲や創造性、ものの見方を知り、人間性をのばす手だすけになれ意を強くしている。この生徒たちはそれぞれ望みの大学に進学し、更に己を高めつつある。

 

ひとりゆくりんごのにおう朝の道

ゆきえ

 

うむももの風に揺らぐはコスモスか

まき子

 

鬼灯(ほおずき)や昔遊びし友の顔

幸子

 

(福島県立白河女子高等学校教諭)

 

 

 


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