教育福島0023号(1977年(S52)08月)-025page

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教育随想

 

心のつながり

海上美津枝

 

プに立って、一人一人をより豊かに育てる真の保育の目的を追求していきたい。

 

園内に子供たちの喜びにあふれた元気な声が響きわたると、あわただしいふんい気の中での保育が始まり、笑ったり泣いたりの交響曲を繰り返しながら、いつか一日の幕が下りて、深閑とした窓には遠くからカッコーの声が忍び寄る。大きな希望と情熱の燈を胸にともし、泉崎第一小学校併設の本園教諭として着任以来十年目、保育の名にかけて歩み続けたこの月日が、果たして数多い子供たちの本当の血となり肉となったかと思う時、いささか疑問が残りそうだ。幼児教育の重要さと内容や方法の日進月歩は、名実ともに目を見はるものがあり、これに携わるものの役割の重さがひしと身にせまり、十年目にして心機一転の絶好な場に立たされ、新しい血をかき立てている昨今でもある。現在私は、二年保育の年少児二十七名の母親として受け持って既に三か月。そんなある日、健康が優れず、私の顔がゆがんでいる時、子供は敏感なもの「どこが痛いの、かわいそうだネ。」と心配顔のY子。パンが足りなくて食べずにいる時「僕の半分あげる。」と大きい方を差し出すS男。昨日の家庭での出来事を何でも得意気に話すT子。はては金魚のふんのように後をつけ回るA男。「私、ちっともつまんない。」とおませなK子。このように心の糸のつながりが日増しにふくらみを見せているこのごろ、何物にもかえ難い純真そのものの童心を傷つけるような不用意な言動、そして身勝手なうそなどはあくまでも慎み、信頼一筋につながる糸を太く強く伸ばしてゆくことこそ保育のポイントであることを痛感させられている。入園以来、どんなやさしい言葉も受け入れず、心の窓をぴったり閉じたまま一言も話さず、石仏のように無表情で自分のいすから決して離れようとしないH男。もしや自閉症ではと不安感がつのるある日のこと。数人の男女児と歓声をあげながらままごと遊びの最中、自分のいすから離れないはずのH男が、近距離に立ってじっと食い入るように見つめていたのだ。「しめた。」一瞬熱いものが胸の中を駆け巡った。来る日も来る日もたゆまぬ親身な偽りのない心の働きかけがついに功を奏し、あの固い心の窓がやっと細目に開かれたのだ。もうこの子がはっきり救われる日が間近く、そして皆といっしょに笑いの中で遊びに興じる無邪気な姿を目の裏に描きながら、この思わぬ大きな収穫にひとり心の底から勝利を叫びたい気持ちでいっぱいであった。一方暴力をふるい回すN男。あたりかまわずたたいたりけったりでうっぷんを晴らす連続には全く思案に暮れる日が重なり続いた。原因は何か。ある日のN男の行動観察を試みた。二三人の男児が楽しそうにブロック遊びに興じている傍らで、数分間見ていたかと思うといきなり男児の手からブロックをひったくり、いちもくさんに逃げる。後を追って取っ組み合いのけんかとなる。N男の非がはっきり認められる。また、並んで歩く女児の列にわざわざ突っ込んだり自分の体に触れたと言って、たたいては平気な顔でいる。この観察でN男の行動はいつも私の目を意識していることをはっきり知った。「そうだ、このN男は皆の注目をひきたいのだ。」「仲の良い友達が欲しいのだ。」N男に対する理解の無さが今更のように悔まれた。後日一対一で思い切り遊び、友達に言いふくめて遊ばせた結果、N男のひとみのかがやきに心からの喜びをくみとることができた。以後のN男の行動を静かに見守っていきたい。幼児教育は白布の上にインクの滴を落とすようなものであり、一度落としたシミは二度と元へはもどらずやり返しのきかないことを念頭に置き、一日一日をたいせつに指導しなければならないと思う。また、幼児教育は、幼児の心を理解することに尽きると言える。常に幼児とのスキンシップに立って、一人一人をより豊かに育てる真の保育の目的を追求していきたい。

(泉崎村立泉崎幼稚園教諭)

 

スキンシップをたいせつに保育

 

スキンシップをたいせつに保育

 

 

 


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