教育福島0023号(1977年(S52)08月)-027page

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教育随想

 

内面の対話

長嶋恒義

 

振といっても、こんな程度で、学習とか指導とかを思い返させられたわけです。

 

ささやかなエピソードですが、二つの実例から入らせていただきたい。--一年生の古典を担当し、赤点になった生徒がかなり出た際です。春休みに集めて、補習をやることにしました。文語文法にしぼり、最初からやり直したのです。得点の高い生徒でさえ、一年なら、文法は怪しいわけです。ところが補習の終わるころには、赤点組が彼らよりやれるように変わったのです。これには驚き、実にうれしく感じました。成績不振といっても、こんな程度で、学習とか指導とかを思い返させられたわけです。

また、生徒指導をしていた時、自殺未遂の生徒を扱ったことがあります。二人だけで、三時間ほど話し合ったでしょうか。理由を尋ねると、青春期の感傷的な幻滅感でした。自分は少年のころより、くだらなくなったようで、将来が不安になる。自分がつまらない人間に変わってゆくのを、これ以上は耐え難くて…というのですね。私は役目がらもあり、自分のコンプレックスまでさらけ出しました。それでも生きてゆくことの美しさを、熱っぽく訴えねばおれませんでした。やがて彼は私の様子に、幻影を見たようです。

「先生のような歳になられても、情熱を持っておれるのだったら…。」

表情が和らぎ、気持ちがほぐれたふうでした。私はこれを見て、内面の微妙さや、暗示の不思議な力を思いました。私自身は凡庸だろうと、役割は大きいことを痛感したのです。

ごくありふれていますが、教育は地味な営みと思えるからです。問題は実践と継続らしく、時流の皮相さを警戒したいのです。それに学校は教育のセンターだろうと、学校だけで何もかもやれるわけではありません。そこで特に高校の場合、教場こそ私たちの生命と感じます。

常に望む風景--心をこめて話し、生徒たちがこれに応じて、燃え出してくれる場面です。それまでノートをとっていながら、手は止まり、全員が姿勢を起こす。顔の動き方さえ違い、眼の光だけが内容を追う。教室の空気はふくらんで来て、しかも張りが出ているようです。彼らの内面に対し、交流のパイプが太くなり、何かが音高く流れ出して…。いえ、教師という意識など消え、教材と生徒たちと自分とが一体化して、ただ文化の偉大さによれるのですね。

こういう場合に、問いを生徒たちに投げかけてみます。ふだん反応しないような者まで、考えた答えがもどってきて、はっとさせられたりします。すでに内面の対話が起こっており、精神が能動的になっているからでしょう。そこで逆に突っ込だ質問も出て、学習内容が深められるのです。

これを裏から見ますなら、私たちは無形の言語に頼っているわけでしょう。生徒たちの心に働きかけ、動かせなければ、と思うのです。学習活動は沈滞し、教壇にいるのもやりきれなくなります。そこで内面の対話を充実させるため、準備のたいせつさを思うのです。教材へのじゅうぶんな理解はもとより扱い方の選定を誤ると、授業に血が通わなくなって来ましょう。

つい惰性に陥り、くふうを怠り、マンネリ化しやすいように思います。あるいは教材によっては、筆者の内面に感情移入し難い場合もあります。教師側が熱中できなければ、生徒たちは敏感なんですね。これをどう突き破ってゆくか、新鮮な意欲をよび覚ましてゆくしかないのでしょう。教室を後にして、疲労感は深くても、心の充足感があるように、と念じながら…。

明日の世界を動かし、伸びようとする若者たちに幸あれ。

(福島県立会津高等学校教諭)

 

まず、教師が熱中する授業を

 

まず、教師が熱中する授業を

 

 

 


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