教育福島0023号(1977年(S52)08月)-028page
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教育随想
へき地の子らとともに
佐藤万里子
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昭和四十二年の春、まだ残雪深い南会津郡の山あいの学校に、不安と希望を抱きながら赴任して以来、へき地勤務十年、今年で十一年目である。
へき地の音楽教育者の一人としていつも考えていることは、音楽に対する興味、関心が他地区の生徒に比して低く、学習への意欲も乏しいので、そんな生徒たちに、すこしでも音楽の楽しさ、美しさをわからせ、音楽を愛する心情を、いかに育てたらよいかということである。
都市の子供たちは、機会あるごとに生の音楽に触れ、美しさをじゅうぶん味わい楽しむことができるだろう。 がへき地の子供たちにはそれができない。
生徒の中にはテレビから流れてくるコマーシャルや、流行歌そのものが音楽であると思っている生徒もいる。たしかに音楽ではあるが、美しさを味わうほどのものではない。
わたしは、こんな生徒たちの音楽への関心を高めるために、毎年NHK合唱コンクールに参加することにした。
メンバー集めに苦労した年、一人一人の声が出ず、気をもんだ年、ハーモニーがバラバラで、できの悪かった年女声三部合唱の年など、いろいろな年があった。
ある合唱祭に参加した時のことである。「先生、今日はがんばっぺ。」とやや緊張した面持ちの生徒を乗せて、バスは一路会場校へ…着くやいなや「先生、発声練習やっペ。」「声がでねといい合唱できねがら、はやくはやく。」生徒たちは、やる気じゅうぶんである。
数分後、合唱祭が始まる。次々と発表される他校の合唱を聞きながら「おれらより口のあき方がいいぞ」。「ハーモニーがいいな。」「アルトの音程が悪いな。」緊張して、委縮していたはずの生徒の間からは、意外にもこんなことばがもれていた。
合唱祭という機会を得て、わずかではあるが聞く耳を持ったような気がする。
わたしたちの合唱は、参加校の中でもあまりよい方とは言えない。しかしこんな幼い合唱ではあるがこの合唱祭に至るまでには、いろいろなことがあった。なかでも運動部活動の練習時間との兼ね合いが一番の悩みであった。
合唱祭の開催される時期は、ちょうど、中体連の駅伝、新人戦の練習の真最中である。そっちの練習が気になって、そわそわとしている生徒、パート練習から逃げ出す生徒、また、いよいよこれからという時に、担当の先生に呼ばれて、運動部の練習へ走る生徒などあって、まとまった練習をすることが困難なこともたびたびであった。こんな日が続くと、合唱祭へ参加する意欲も失われがちであった。
そんな中で、練習曲用の「ふるさと」の楽譜をだれか持っていないか、と言ったところ、つぎの日、M子が「先生、これわたしの書いたものです。」とノートに書かれた楽譜を持ってきた。わたしは一瞬驚いた。
M子は楽譜すら読めない生徒なのだ。知能も低く、友達もいない。授業では発表もしたことのない生徒である。そんなM子が楽譜を持ってきてくれたのである。
わたしは最終的には合唱祭のメンバーからはずそうかと思っていた。しかし、このM子の音楽に対するひたむきな気持ちを考えると、とてもはずす気にはなれなかった。メンバーの一員としてのM子は生き生きしていた。他の部員に合わせようと、精一杯、口を開いて歌うのである。
M子が、卒業の時、「先生、合唱祭がんばってください。」と言って別れていった。
今年もまたその時期がやってきた。へき地の子供たちとともに、がんばれるだけやってみようと思っている。
(南郷村立大宮中学校教諭)
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音楽的心情を育てる授業をめざして
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