教育福島0023号(1977年(S52)08月)-029page

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教育随想

 

苗代半作

横田政樹

 

、文化国家建設の根幹であるのにかんがみ、誠に深憂に耐えないところである。

 

青少年の非行、乱塾、入試など教育界には種々さまざまな問題が多発して警鐘が乱打されている。このことは、教育は国家百年の大計であり、青小年を心身ともに健全に育成することは、文化国家建設の根幹であるのにかんがみ、誠に深憂に耐えないところである。

教育は、家庭・学校・社会の各領域で営まれるが、とりわけ家庭教育はしつけを重点に行わなければならないのに、とかくしつけが軽んぜられ、学力に神経をとがらせ、入試に血相を変えているのが現状ではないだろうか。

学力のたいせつなことはいうまでもないが、教育のはたらきが人間性をより豊かに、知性をより高く培うことをめざすものだとしたら、ただ学力だけを高めることのみが教育ではなく、情操を豊かに、知性をより確かなものにし、意志をよりたくましく育て、円満な人格を育てることがよりたいせつであると考えられる。

現代の稲作栽培は機械化による田植えのため、特定の木箱などで育苗するため苗代をあまり見ることができないが、従前は苗代で育苗したため、苗代でよい苗を仕立てなければ本田に植えても多収穫は望めず、不良な苗であれば半作になるので、苗代期における苗の良否いかんが秋の収穫を左右し、いわゅる「苗代半作」ということで、農家は苗代の育苗管理に精魂を傾けたということである。

この「苗代半作」を教育の場にあてはめて見ると、苗代は家庭教育、本田は学校教育、社会教育に当たるのではなかろうか。

そこで家庭教育の良否いかんが、青少年の健全育成に何らかの影響を与えるのではないかと察するとともに「苗代半作」の例えのように、よい家庭環境を整え、楽しい家庭生活をとおして、家庭教育の充実を計るよう最善の努力をなすべきではなろをうか。

戦後の家庭生活は、民主化という国をあげての叫びの中で、その姿を全く変えてしまった。

戦前の青少年の指導においては、きびしいしつけによる訓練に重点が置かれていたようであるが、戦後はとかく個人の自由ということが強調されるあまり、家庭教育においてもしつけの面がおろそかにされる傾向が著しいのではないかと思われる。

また家庭は子供を養育し、余暇を楽しませ、愛情を与えて心を育ててくれたように思われるが、変わったようにも考えられる。例えば、母の乳房で自らの栄養を与えながら養育したのが、現今は種々の条件で、人工栄養に大部分変わったのではなかろうか。また母親の愛情には変わりようがないだろうが、母親が真心こめて縫ってくれた着物や、つくろってくれた足袋(たび)をはだみにつけた愛情の温か味は、時の流れとは一言え、現在デパートなどで求める既製のインスタント的なものと比べて品質・デザインに優劣はあったとしても、格段の暖かさがあったのではなかろうか。

ある老人の経験談の一節に「旧制中学校時代三里の山道を町の中学校に通学したのですが、冬季、雪の日ともなればそれは大変でした。

それでもおふくろは毎朝ちゃんと熱い御飯とみそ汁を食べさせてくれたんです。これが五年間一日も欠くことがなかった。おふくろの思い出と言えばこれくらいです。」と語ったという。その顔は想像するにいかにもほがらかで楽しかったように思われる。現代は交通機関も非常に発達し、あらゆる点で近代化・合理化された時に多少古めかしい話ではあるけれども、子供たちの心を育ててくれたということにかけては、なにかしら笑って聞きのがすことのできない尊い教えがにじみ出るように感じられる。

子供は家庭の鏡とも言われるので家庭環境を整え、子供に内容豊かな手本を示し、あかるい楽しい家庭生活を営むことが、本当の家庭教育ではなかろうか。

(富岡町教育委員会委員長)

 

 

 


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