教育福島0024号(1977年(S52)09月)-024page

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私のねがい

 

池田昭子

 

でいます……」。というハガキを受け取り、当時の苦い思い出がよみがえった。

 

前任校での教え子であるY子から、「先生、お元気ですか。私はおかげさまで高校生活を楽しんでいます……」。というハガキを受け取り、当時の苦い思い出がよみがえった。

入学当初のY子は、学習中はいつもきちんとしていて、教師の話を真剣に聞こうとする子であった。わかったことには黙って手を上げ発表することもあった。ノートもきれいにとり、身のまわりのせいとんもよい。つまり教師の目には模範的な児童として映るそんな児童であった。

ところが、しばらくして、Y子はときどき学習を放棄したり、かいていた絵をもみくちゃに丸めてごみ箱にほうり込んだり、あるいは、何もしていない友達をたたいたりするようになった。

一学期も後半になると、大体の児童は集団の一員として参加して非常に活発に行動するようになるのであるが、Y子だけは、どうもそれを拒む傾向が目立ち始めてきた。だが、私は二学期になったら変容するのではないかと安易に考えて夏休みを迎えたものである。

二学期になってもY子の拒否状態は続いた。朝の会にみんなが整列したのに急ごうともしない。国語の順読みでY子の所に来ると必ず時間がかかり果ては読まなくなったりもする。教師や友達がいくら励ましても表情を少しも変えない。時には私も、強い語調で「がんばりなさい。」と注意もした。けれどますますいこじになるのである。どうしてこうなってしまったのだろう。しだいに毎日の授業がゆううつでさえあるようになった。

そこで、Y子の行動の背景を探ってみた。すると、Y子が学校生活に対する強い不満を持っていることを見い出した。『学校は人に負けないで勉強するところ。』という意識がY子の心理を圧迫していた。速く走りたいのに思うように走れないもどかしさ、それにいっしょうけんめい努力しているのに認められない腹立たしさ、このようなやり場のない不満を消極的な行動をとることにより逆説的に教師に訴えていたのであった。現われ方に違いこそあれどの子にもこのような悩みはあるにちがいない。そして、日々見過ごしてしまいそうな内面的指導の重要性・不可欠性を心に刻まれたのであった。

 

みんな仲良くあすに向かってすすもう

 

みんな仲良くあすに向かってすすもう

 

とは言え、『Y子のような失敗は繰り返さないようにしなければ』と思うことが今でもたびたびある。授業の中で何とか理解させたい、意欲を持たせたいと真剣になって教材研究をしたはずなのにどうも思うように反応がない。こんな時、教師と児童との心的ギャップがぐんぐん広がり、何とも言いようのない孤立感を味わう。また、ついさっきまで落ち着きがないと注意されていた子供が、遊びのリーダーとして活躍したり、教室では黙っているだけの子供が案外人気があったりして見逃してはならない一面にハッとする。あるいは、Y子ほどではないにせよ、拒否行動に出る子がいたりしてヒヤリとさせられる。どんなささやかなことでも認めてやり励ましていかなければならない。言い古されていることではあろうが良い授業をするためには、やはり一次的環境としての良い学級づくりをしなければならないことを、このごろ特に痛感している。各個人の表面的な性質は容易にとらえられる。しかし、内面的な性質のは握は非常に困難である。それには、一人一人の子供と直結すること、各の長所を発見し認めてやることである。そこにこそ、子供の意識を前向きにさせるきっかけがあるように思える。学級という一つの社会からはみ出すのを未然に防ぎ、学級そのものの質を高めたい。こんなことを私はねがっている。

(梁川町立富野小学校教諭)

 

 

 


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