教育福島0024号(1977年(S52)09月)-026page
ともに学ぶ
内山邦夫
私が初めて校長として赴任した学校は、独立開校して二年目のS市立H小学校であった。学級数六、児童数九十二名(三年目にようやく百十五名)教職員十名のへき地一級指定校である。地区民のほとんどが終戦後開拓者として入植した人々であり、新しい郷土づくりに取り組むパイオニアとして、教育にかける期待も当然大きなものがあった。その期待にこたえるべく教職員も一丸となり、すべての面で恵まれない子供たちのためその子たちといっしょになって、それこそ真剣に毎日の指導に打ち込んだものである。
ある晴れた日曜日、五百メートルほどのところにある住宅から学校へ出かけてみた。近づくにつれ、ザーコザーコ、トントンという音が耳に入って来る。はて、大工を頼んだ覚えはないが、どこか修繕でも始まったかなと思いながら行ってみると、若い女の先生が近所の女児二名に手伝わせながら、だいぶ大きな植物観察用フレームの工作をしているところであった。「やあ、ごくろうさま」。の声に、汗だらけの顔をにっこりさせて、師弟がそろっておじぎをした麗しい姿は、今でも脳りに浮かんでくる。
校長の指導指針は先生がたにじゅうぶん取り入れられ、子供たち全部に徹底して行った。この地区の作業に来た電電公社の人が「行く道ごとにすべての子供たちにあいさつされたのは生まれて始めてです。校長先生からほめてやってください。」とわざわざ学校に来られたことがあった。これは、環境上どうしても消極的になりがちな子供たちの性格を、少しでも明るく積極的なものにするために始めた「一声運動」のあらわれであったろう。また、このころ出かせぎの増加に伴ってふえつつあった虫歯を予防するため「全校歯みがき運動」を展開し、ある程度の効果をあげたこともあった。
こんなこともあった。冬休みの数日間住宅を留守にしたときのこと、玄関のドアが強風にあふられて開いたままになっていたことがある。家の中を調べて見たが、何一つ無くなったものがなかったのである。地域全体でも今までに、物が無くなったとか盗まれたという話は、ついぞ耳にすることがなかったことでも推察できよう。
初めて見る冷蔵庫
校舎の方は、木造二階建てのものを造る計画で、すでに一部は出来上がっていた。しかし、この地区には消防の施設も組織も無かったので、市当局に無理にお願いして鉄骨コンクリートの校舎を建設していただくことができた。さて校舎だけはできても、中の設備は無に等しかったので、やむを得ず寄付金に頼ることにした。当時の一般家庭は余り裕福でなかったので、学区外の有志にお願いすることにしたところ、予想以上の募金が集まった。この金で校旗をはじめ、鼓笛一式、十六ミリ映写機、暗幕、冷蔵庫等を設備することができたが、協力してくださった多くのかたがたに心から感謝したものである。
卒業生の中には、高専に入るなどかなり優れた者もおり、家の後継者として残っている者などは今でも年賀状をくれる。何か忘れ得ない地域の一つである。
「教育は人にあり。」とよく言われるがたしかに教える先生と子供と父母たちがいっしょうようけんめいになれば、予期以上の効果をあげることができるものだということを体験した。自己の権利のみを主張し義務をおろそかにし、教師本来の姿を見失う人も見うけられる昨今ではあるが、子供たちとともに歩み、ともに伸びようとする情熱だけはいつまでも失いたくないものである。
(天栄村立天栄中学校長)