教育福島0024号(1977年(S52)09月)-027page

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「不惑」の中の「惑い」

 

田野入キヨ

 

「ビリビリーン」。

 

「ビリビリーン」。

床に就こうとしたら電話である。歯切れのよい声で「先生。ぼくです。Yです。わかりますか」。Y君?

電話をかけてくる教え子は決まっているが、その中からY姓は思い出せない。「アルバムを見てたら先生とお話ししたくなって電話したの。」という。話をしているうちにY男の顔が浮かんできた。

「そうだ。あの子だ。」

Y男は六年前中村一中に赴任して二年目に担任した生徒だった。大工の長男として生まれた彼は、生後間もなく小児マヒにかかりいくらか脚が悪かった。歩行には支障はなかったが、甘やかされて育ったせいか行動面で問題児と呼ばれる子であった。

学校への諸会費は使いこむ、友人から金は借りる、金は盗むで両親は手を焼いていた。私は幾度か自転車をとばし家庭訪問をした。子供のふれあいを多くもっために生活ノートを書かせ、学校や家庭でのY男の生活がわかるようにとY男の連絡ノートは、卒業するまで親と私の間を毎日往復した。そんなY男を忘れるはずはない。

「ぼく大学に在学しているので、東京に来てるんです。」

「大学に?」私の声は驚きと喜びにはずんでいた。Y男が大学に。---

Y男の母は、私立H高校の願書締め切りのおし迫った放課後、「Y男を高校に入れたいのですが」。と言って来た。学校では現在に至るまで進路指導はじゅうぶんしたつもりだし、連絡ノートにも親子の意向は、父の大工仕事の手伝いと記されているのに。第一本人は進学を望んでないので模擬テストも全然受験していない。私の今までの指導はどうなっているのかと考えさせられた。Y男もよい方向に向いてきて、卒業しても、まあ心配ないだろうというこの時期に。Y男に動揺を与えることになる。

「親子でよく相談して下さい。」と願書を渡したが、学力もないY男の高校生活を考えるとき、私の不安は広がるばかりだった。

しかしY男は入学した。このY男が「大学で一級建築士の資格をとるのにがんばっています。先生の家も、ぼく設計してやっからね」。しばらくぶりにきくY男の元気な声ではあるが喜んでよいのだろうか。もしあのまま大工になっていたとしたら………。進路指導のむずかしさをこれほど感じさせられた電話はなかった。

 

生徒の幸せに直結する授業を

 

生徒の幸せに直結する授業を

 

教職二十年間、どれほどの生徒に進路指導をしただろうか。あの顔、この顔が私の脳りをかすめ、床に就いても眠れなかった。私の一言が彼らの将来にプラスになったかと。

そこで夜遅く電話をよこす生徒のS子を思い出す。彼女を担任したのは、私がまだ若い二十七歳の時であった。

そのS子はもう三十歳になる。S医院の看護婦見習いをしながら准看の資格をとったがんばり屋である。この二月、「同級生からは、早く結婚したらと言われるけど、保健婦の資格をとるのに上京します。私の人生はこれからよ」。と明るく笑ってあいさつに来たS子の顔。

教師の役割は、個々の生徒の持っている可能性を最大限に引き出してやると言われる。しかし私の助言や励ましは、本当に子供たちを幸せにしているのだろうか。その時点で最善を求めたつもりの進路指導が、成長する少年期の人間を扱った場合、確率はどうみても五〇%である。不惑の年代に入った私は、教育について確信をもちたいと念願しながらいつも「惑い」の中におり、この思いは尽きないのである。

 

(鹿島町立鹿島中学校教諭)

 

 

 


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