教育福島0024号(1977年(S52)09月)-028page

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「教える」よろこびを

 

斎藤洸旦

 

両者の信頼感が生じ、こちらも素朴ではあるが、「教える」よろこびを感じる。

 

放課後など、生徒の質問に応じた場合、お互いに納得がゆくまでやるのでどの生徒もよろこんで帰って行く。「教える」情熱が強ければ強いほど、生徒の先生に対する感謝の気持ちは深まるようで、そこから、両者の信頼感が生じ、こちらも素朴ではあるが、「教える」よろこびを感じる。

われわれの仕事の中心は、この「教える」ことであり、それが生徒の「教わる」心と働き合って、学校生活が動いて行く。しかし、高校の現場は、この「教え、教わる」よろこびが、まだまだ希薄なように思われてならない。

ところで、「教える」ことを阻んでいるのは、生徒を必要以上におとな扱いをすることではなかろうか。身体的にはおとなみたいだし、口を開けばおとな顔負けの発言をするので、ついつい外形に惑わされて、「教える」働きかけがにぶらされてしまう。そして、生活の面でも学習の面でも、自主性尊重と言う意見がまかりとおる。「教える」ことをしないで、自主学習、自主活動などと言うのは、「教える」ことの放棄と言うべきか。自主性だって、「教える」ことによって発現するのは言うまでもないだろう。いずれにせよ「教える」と言う伝家の宝刀が、自主性尊重などと言う考え方のために、その威力が失わせられている。皮肉な見方をすれば、その方が、責任はこちらに来ないで、生徒の方に行くから都合がよいだろうが。

しかし、実際には目に余るものがある。職員室の入口で、わたしが生徒とぶつかった場合、生徒は先を譲るなんてことはしない。わたしを押しのけむりやり入って来る。一事が万事である。横着だなどと言うのではない。先を譲ることを知らないのだ。今まで、だれにも教えられないで来てしまったのだ。しつけは、家庭でなどと、責任分担を言っていられない。

生徒は、本当にわからないでいるのだ。授業に臨む場合、こちらは下調べをして行くわけだが、教材はかなりむずかしい。われわれは、専門にやっているので、むずかしさにまひしてしまって、生徒の出来ないのを嘆くのだがそれは見当違いであろう。通りいっぺんの授業で、内容が理解できるなんて並たいていではない。どの教科をとってみてもそうだろう。

 

課外の個別指導

 

課外の個別指導

 

まして、高校全入に近い現状で、昔ながらの意識で、昔ながらの講義式の授業でわからせたとしたら、それは神わざであろう。わからない授業に生徒は顔をそむけ、われわれも納得の行かないままに終わって、お互い、気まずい気分の毎日を過ごしたら、歌の文句ではないが、それこそ「高校砂ばく」であろう。

高校教育をオアシスたらしめるためには、教育のすべての場で、「教えてやる」姿勢を積極的にとるべきではないか。この「教える」ことに対する信頼は、まだ失われていない。世の親もよく「教えてもらう」ために、塾にやっているのだろう。で、「教える」には、教えないではいられない精神状態に、自分を置くことが必要である。それは、しつけの場合には自分がせいいっぱい生きることであり、教科の場合には教科の価値を自分なりにつかんで行くことである。ここで、教師の生き方がかかわってくる。そのエネルギーが、教育課程の検討をうながし、指導法のくふうとなってあらわれてくる。こういう精神を背景に、生徒に対し「教える」と言う行為をとおして、生徒の精神に働きかけ、それがひいては、生徒の人間形成をうながすことになるのではないか。高校教育の危機が叫ばれている現在、方向を見失わないようにしたいと思っているところである。

(福島県立相馬女子高等学校教諭)

 

 

 


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