教育福島0025号(1977年(S52)10月)-027page
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教育随想
一番たいせつなもの
大関通
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近時毎日のように、教育問題についての記事が新聞をにぎわしている。
大学入試制度の問題、乱塾時代、教育課程の改訂問題、週休二日制の問題中学浪人の問題、落ちこぼれ児童生徒の問題、幼児教育の問題等々数えあげれば限りなく、それらをそれぞれの持ち場、立場から報道されている。教育の荒廃とか、組合運動の一端をとらえた批判をとおして教師の質の低下だとかいわれているが、それがすべてではなく、多くのまじめな教師までが変な目でみられるのはしのびがたい。教育の荒廃をもたらした最大の要因はいったいなんなのか?
最近は管理社会とやらで、教師間や教師と児童生徒間の人間関係が薄くなり、たてまえと本音の違う教育実践が一般化してしまったことを荒廃と呼び質の低下と論難するであろう。
しかし教育はもともと「愛」が原点であり、この愛のともしびを燃やしつづけ、教育基本法の精神実現に黙々と取り組んでいる教師もあることを見落としてはならない。教育大の上田薫教授の「現代教育の危機」の中で、危機の一つとして教師の三無主義(無気力、無責任、無関心)をあげているが、その根幹をなすものは教育愛の稀薄又は欠如であろうと思う。教育愛があれば気力もおういつしてくるであろうし、責任感もおう盛にならざるを得ないであろうし、関心はいやが上にも高まろうというものである。自分がはじめて教員になった時、校長から「子供をわが子のように愛せ、但しわが子と全く同じに愛することは不可能である。ただわが子だと思って愛せ、わが子と区別がつくのは止むを得ないことだが」と説かれたのを今もって忘れ得ない。
知識としてはペスタロッチの偉大な教育愛を知っていた。この偉大な愛情の持ち主にはわが子と区別なく愛することが出来よう。しかしこれは限られた人々ではないだろうか。教師の大部分は凡人である。平凡な人間でも出来ることは「わが子のように」愛する道しかない。この子がわが子だったらと受け持っている子供を、わが子におきかえて見つめるということは凡人でも出来ることである。自分の子供だったら「さじを投げる」というようなあきらめを容易にはしまいと思う。簡単に「落ちこぼれ」は出ないだろうと思うのである。同じ職場でSと云う教師は「クズをつくらない」「クズをなくす」ことで有名だった。愛の教育の一つの典型であろう。だが現代の教師は「お客さま」ということばを容易に使う。そして「お客さま」には常々「自分が覚えられないのはかまわないが、人の勉強だけはじゃまをするな」と説ききかされて黙々と一時間一時間を過ごすのである。まことに偉大な忍耐である。要は教師の姿勢がものをいう。これがわが子であったらある程度のひき直しを図るにちがいない。いずれにしても、教育という仕事は、根底には愛情が不可欠である。職人でも自分のした仕事には、わが子のような愛情を持つという。ましてや教師の対象は人の子である。わが子だったらと置きかえて見つめたら、ほうっておけない気持ちがわいてくるにちがいない。
現代教師の「お客さま観」を「落ちこぼれ児童」を今一度見直し、見つい直して欲しいと願うものである。
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一人もおちこぼれのない授業を
(山都町教育委員会委員長)
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